3月××日
吉田喜重監督の「人間の約束」(1986年)を見たのは10日ほど前。頭の中で消化しようにも消化しきれず、書き始めるまでにずいぶんと時間がかかってしまった。ディティールも抜け落ちているところがあるのは否めない。しかもなかなか難しい作品だったため、自分がこの映画をわかったとはとても言えない。
吉田喜重の作品を見たのは、これで3本目だ。「エロス+虐殺」、「告白的女優論」。彼の作品の全貌を知らないので確かなことはいえないが、この3つの作品には一貫した問題意識があるように思えた。
しかしこの作品は吉田喜重の中で久々に手がけた映画で、他の2作品とは映像の印象がだいぶちがう。ある意味でNHKのドラマのようなライティングとカラーになっている。実際吉田は、映画を撮っていない間NHKで長い間制作をしていた。ただNHKのドラマと似て非なるものとなっていた。そこは変な違和感を作り出していて非常に面白かった。
この映画では、ある寝たきりのボケ老婆、タツが死んているのが発見されるところから始まる。警察は自然死ではないという判断を下す。
このあと、夫である亮作(三國連太郎)が、自分がタツを殺したと自首をしてくる。しかし亮作はすでにボケていて、死因など状況証拠と食い違う部分がある。
本当はあの日あの家では何が起こったのか?
映画の冒頭でその部分が示され、映画はタツがボケ始める頃の過去へと移る。
しかし、タツはなかなか殺されないし、実際「自然死ではない」という明らかな結果に対して、事態はそんなに単純明快なものではないことがわかってくる。
タツと亮作は、息子である依志男の家族と一緒に暮らしている。タツはボケることによって、時間の概念がなくなり、自身を少女のように、もしくは女(男性の目を意識したり、性の意識を持ち始めるという意味で)として感じるようになったりする。
過去の出来事を現在と混同したり、息子に欲情したりする。
そういった中で、息子にとって母とはなんだったのか、タツというこの老婆は一体誰なのかがわからなくなっていく。また、亮作も自分の妻であるタツがなんであるのか、また自分もまたボケていく中でどう反応していけばいいのかコントロールがきかなくなっていく。
息子の妻は、他人であるこの義母さんを看病していくということはどういうことか。そして同じ女であり、自分の未来の姿かもしれないタツが豹変していくことに対して自分がコントロールできなくなっていく。
誰もがタツを殺す可能性があったし、またタツもまたはげしい痛みによって死にたいと願っている。
彼女を現在性に留めるのは、床ずれなどによるはげしい痛みだ。
非常に複雑な物語であるが、ここで描かれているのは、複数の人間の中にそれぞれ存在する時間や記憶と、出来事や事件がいびつに関係しあい、また一致しないところで成立していることだろう。それは歴史化することの不可能性というか、過去、現在、未来がそれぞれの人物の中で混乱し、それを記述するはずの映画が、不確かなもの(記述不可能なもの)になってくる。それは、映画という直線的な時間でありながらも、実は無関係で不連続な瞬間をつないげていくことで成り立っているメディアの問題とも関わってくるはずだ。
しかし、何日か前に見た「海を飛ぶ夢」と、偶然だかいくつか共通している部分があった。とく印象に残った共通点は二つ。
1つは障害者とその家族の介護と、複雑な愛の問題が描かれているということ。
もう1つは、主人公の男性を特殊メイクで老人に変えている部分である。三國連太郎は、この映画を作っているときは、62〜3歳くらいであるのに対して、演じている役は70代後半から80歳代前半の男性である。三國連太郎の肉体はおそらく普通の60代男性より若い。
そういったフィクションとフィルムに映る役者の身体が奇妙な感覚を作り出している。
また、亮作の身体感覚自体も非常に不明確で、若いのか老人なのかよくわからない。タツを軽々持ち上げたと思ったら、失禁してしまったするし、非常にまともに考えていると思ったら、ボケていたりする。ボケ始めというのは、本当にそんな感じなのかもしれないが。
タツは本当に老婆に見えるのに、亮作の身体年齢はよくわからない。そこにはおそらく吉田の中でのフィクションとドキュメンタリーの問題と深く関係しているはずだ。
映画の中でタツの本当に老いた裸、乳房を映しているのはそういったこととも関わってくる。
やっていることが同じでも「海を飛ぶ夢」とは違った効果と意味を作りだしているが、「人間の約束」で起こっていることのほうがはるかに複雑で面白い。
しかし、ちょっと前に見た成瀬巳喜男の「娘・妻・母」といいなんだか最近、老人・介護・家族・愛を扱った映画を立て続けに見ている。一体なぜかは自分でもわからないが、ただ思ったよりもこの手の映画、嫌いじゃない。