1966年、サンフランシスコ。
25歳の私は、大学を卒業したばかりだが、アトリエを借りて作家活動を精力的に開始しようとしていた。
このときからすでに私は彫刻や絵画というジャンルにとらわれない芸術の問いを考えていた。私はパフォーマンス、ビデオインスタレーション、写真、ネオンで作品を作ったりもする。もちろん立体やドローイングの作品もある。私にとっては、絵画や彫刻といったジャンルの問題よりも、作品に対する哲学的な問いの発生のほうに興味があったからだ。
しかし、私は芸術を考える上で、造形の問題を放棄したわけではなかった。つまり、(絵画というよりも)主に彫刻の問題を私なりに展開していったところがある。フランク・ステラ、ソル・ルイットが、絵画や立体を作ることをあそこまで概念化した意識を継続していた。
私の問題意識と近いところに立っていた作家にリチャード・セラがいる。彼は彫刻の問題を展開してきながら、建築とモニュメント彫刻のどちらにも立たない作品を作り出し、そこから独自の思考展開をしていたように思える。
私はセラのように抽象的な形態を作り出して作品化することもあったが、私はより「言葉と物」の関係、「名と名指されたもの」の関係に、また「言語ゲーム」に興味があったためより具体物を使用する傾向があると言える。
そういう意味ではエドワード・ルッシェは共感できる作家の1人だった。私の場合彼のように職人的に描いていくやり方より、型取りやビデオを好んで使っていた。特に彼のルネ・マグリットに対する共感の仕方とその展開に興味を覚えたと言ってもいい。
そしてこの時考えていた作品は、「縛る」ということから見えてくる問題だ。
そもそも私は少年時代からカウボーイや西部劇にイカレていたので、ロープには独特の愛着もあったわけだけれど、「縛る」ということは非常に面白い条件があるように思えたのだ。
「縛られている」状態とは一体どのような状態なのか。
「縛られている」という状態は、「縛られている物」と「縛る物」の間で均等にテンションがかかることによって、お互いがお互いを固定している状態のことだ。
「縛られている」状態というのは、いつでも解かれる可能性、危険性を秘めている。
これ以外にもさまざまなことを考えてみたが、そういったことを含めてながら考えていくと、誤解を恐れずに言うのであれば、「縛る物」と「縛られる物」の関係は、「固有名」の問題と関係と似ているということはできないだろうかと考えた。
「名」と「名指されるもの」というのは、一見一致しているように成り立っている。しかし、実際は恣意的であって、その結びつきは必然性がない。しかし我々がある対象について考えるとき、言語を使ってしか考えることができない。
ウィトゲンシュタインの文章を引用してみよう。
ムーアが問題にした「これが手であることを私は知っている」という文は、ほぼ 次のことを意味するといってよいのではないか。「この手が痛む」とか、「こちらの手のほうがもう一方より弱い」とか、「私は昔この手を怪我した」とか、そのほかさまざまな言明を用いて、私は言語ゲームを営むが、その場合問題になっている手の存在はいささかも疑わない。(UG,371)
つまり、ムーアが手について考える際に、手という名と手と呼ばれているものの間の乖離を認めないことによって、手について疑うことができない。そこにウィトゲンシュタインが批判もしくは考察しようとしているのではないだろうか。
私はこの問題を何とかして作品にしたいと考えていた。「縛る物」と「縛られている物」の関係、「縛る」と「縛られている」の関係、を共に乖離させていったときに見えてくる「縛り」とは一体どのようなものなのか。その目的のためにさまざまなアイデアを用意したのだが、作品化にいたらない日々を送っていた。
そんなある日、友人のセラに紹介されたブルースという男がいる。彼は知的で端正な顔立ちの細身の男だった。私はブルースの話を聞きながら、私は非常に似た意識を持っている人間だと思った。
ただブルースは私にそこまで関心を抱いていなかっただろう。もとよりブルースはあまり人間が好きではないと言っていた。
だが、私がアトリエに遊びに行きたいといったら快く迎えてくれた。そして私はそこで驚くべき作品を目にすることになる。それは私が考えていた「縛る」の問題を不気味なまでに内包している作品だった。
後に「Bound to Fail」とタイトルの付けられることになる作品である。
彼の作品は私が考えたことと同じことではなかったかもしれない、いや同じなんてことはありえないだろう。私は恐ろしくて作品の話をブルースとすることができなかった。
けれども、私が考えていたような問題を、ブルースは「縛られている」状態を、型取りでレリーフ状にする(つまり裏側がない、ボリュームをなくす、テンションを不在にする、効果がここでは考えられているはずだ)ことによって無効にし(つまり異化)、「縛る」という言葉が空洞化されて残る。
またダボダボの服を着せられていることによってこと身体のフォルムが不明瞭で、縛られているはずの身体に不在感が伴っている。
タイトルの「Bound to Fail」つまり「失敗するに違いない」という言葉も、何が失敗するのか明確には示されないまま、非常に暗示的に作品と関係付けられていると言っていいだろう。
私がブルースと会ったのはその時が最後だった。私は家庭の事情によりNYに移り住むことになったからだ。しかし、今もブルース・ナウマンという名前を聞くと、あの頃のサンフランシスコの生活を思い出すのだ。
※これはフィクションです。