少し前に、2005年のターナー賞について書かれたブログをいくつか読みました。その中で印象に残った二つのブログがありました。
二つのブログとも、例年のターナー賞より刺激的な作品が足りないという感想を持ちながらも、対照的な感想を書いていたのです。
今回の受賞候補者は、サイモン・スターリング、ジム・ランビー、ジリアン・カーネギー、ダレン・アーモンドなど。
対照的な意見とは、サイモン・スターリングを擁護するか、ジリアン・カーネギーを擁護するかが大きな鍵となっていました。
サイモン・スターリングは、コンセプチュアルなインスタレーション作家で、今回出されていた作品もコンセプチュアルでユーモアにあふれる作品を作っています。
ライン川河畔にあった小屋を作家が解体して、ボートに組立て直し、それでライン川を下り、バーゼルの美術館まで運んで、そこでまた小屋に組立て直して、それを展示した作品。
またジリアン・カーネギーは、風景画、静物画、人物画などさまざまなジャンルを表現主義からフォトリアリズムなどのさまざまな様式で描き出す作家で、今回の風景画などのその一環のようです。有名な作品は自分のお尻を描いた「尻画」。
サイモン・スターリングを擁護した人は、一見なんでもない小屋が、実はライン川を下ってきて、再び会場で立てられたという遍歴に対して非常に驚きを示しています。
片方の人は、そのまるまる小屋が展示されたインパクトに驚きながらも、小屋の遍歴を読んだとしても作家が何をしようとしているのかさっぱり理解できないと否定しています。(この人も現代美術はそこまで詳しいくはないにせよ、美術の知識がある人のようですから、単にわからないと言うことではないようです)
サイモン・スターリングを擁護した人は、ジリアン・カーネギーは、確かに巧みだと思うが、結局アトリエで描かれるただの絵であり、現代における社会性が欠如しており、専門家向けの美術でしかない、と。
もう一人は、ジリアン・カーネギーの作品は一番伝統的な美術で、カンバスに描かれた絵画で、色使いがトリッキーとはいえ、とても良かったと書かれている。
ちなみに、サイモン・スターリングがターナー賞を受賞しました。僕は、これらの作品を見ていないのでなんともいえませんがサイモン・スターリングの作品は確かに面白いだろうなと思いました。
彼の作品は、確かにテキストを読まなければわからないような作品ではあるようですが、それでも作品の造形性やデザイン性の強さ、展示におけるプレゼンテーションのうまさは、他の作品を見ていてもよくわかります。
しかし、サイモン・スターリングのそこで出されていたはもう一つの作品を見てみると、それがロバートスミッソンのパロディーであることがわかります。それは、今回スターリングが提示している「メタ・エコ」はある意味で「アースワーク」に対する一つの読み替えでもあり、継承としても見ることができる。またメタ科学やリサーチ系、テキストと作品の関係を見てみてもスミッソン的な意識というのは明瞭に見て取れるはずです。
しかしではこれが、ジリアン・カーネギーに比べ社会性を取り込んでいる、今日的な作品かというとそれも頭を傾げてしまうと言うところであります。これはメタと言えばかっこいいけれど、「なんちゃんて」とも言えるわけで。後は展示のうまさとかっこよさの勝利と言えなくもない。
もちろん彼は社会性で評価されているわけじゃないでしょう。それとやっぱり何をやろうとしているかわからないような表現やユーモア、その広がりに手を出しているのだし、そこが非常に面白いと僕は思っています。
ただ、美術の中での社会性といった場合、いったい何のことを言っているのかといわれると実はよくわからない。自分のセックス暦を暴露するのが社会性で、「アトリエ」で絵を描いているのは社会性の欠如として見られるというのはよくわからないし、エログロならいいのか、もしくは「ブッシュ!」と叫べば、もしくは「ラディン」を描けばそれが社会性かというとそんなことではないはずです。つまりモチーフや取り扱うメディアの問題だけで社会性と言われてしまうのは問題なわけです。
スミッソンの「サイト」と「ノンサイト」とは、必ずしも社会性の優をいったのではないはずなのです。
つまり作品における表現や形式の問題と社会性の問題は、むしろメビウスの輪のように関係付けられているということを言っているはずであり、単に美術じゃないと言うことが、社会性であるというわけではないはずなのです。だからジャットやルウィットの中にもそのような社会性を見出していたはずです。ポール・セックというダミアン・ハーストの元ネタみたいないろんな意味でかなり危険な作家(ものすごい影響力を持った人です)もそこで称揚していますが。この両方を同じ場所で取り上げるということのスミッソンのラディカルさすごいと思います。
しかし、この社会的な作品という固定観念というのは非常に根強く残っている。そして、絵を描いている人たちも逆に絵画とはそういうものだという風に勘違いしている人たちが多くいると言っていいのではないでしょうか?
特に「絵画原理主義的」つまり絵画という安定したジャンルが存在すると疑って信じない人々の危うさと言うのはそこにある。伝統的な美術っていったい何なんだと思ってしまうわけです。
それは批判しなければいけない。しかし、それは絵画というものの中に社会性や現代的な問題が孕んでいない、そういうことではないんです。
映画監督ジャン・リュック・ゴダールは、マイケル・ムーアの映画を見て、「ムーアが考えているほどブッシュはバカではない。このブッシュ攻撃は相手を利するだけだ。」というわけです。
そしてゴダールの「アワミュージック」において、ハワード・ホークスが用いた「切り返し」のやり方(つまり形式=表現)の問題をあげる。それを自分も完全によくわかっているわけではないので偉そうなことは言えませんが、そこでの切り返しに対する言及する問題は、映画だけの問題ではない。それは構造の問題であり、それは社会的な構造や民族間の戦争、またほかの芸術の問題とも置き換え可能、つまり共通するものなのです。(「切り返し」とは他者と他者の関係を作り出し、それを観客が眺めることです。)
そういった単に社会とは無関係に見えるものの中に社会的な目線が内在されているのであるんだと言うことをスミッソンは言ったのではないのでしょうか。もちろんスミッソンは形式だけを優位にしたわけではなく、形式以外の問題も構造として見るということを言ったわけですが。
そういうことも含めてジリアン・カーネギーを批判するのであれば納得するのですが、「アトリエ」で「絵」を描いているから「美術」でしかないとか言われてしまうとえっと思ってしまいます。
また、それなりにしっかりした意識でやっているはずの作家を、美しいだけでしかないとか、うまさときれいさしかなくて空しさすら漂っていると言われてしまうとちょっと問題だろうと言えます。それは作品に内在している構造的な問題を無視しているわけであり、逆にそれは見る側の社会性の欠如を問わなければいけないからです。
http://artictoc.com/jp/01/okazaki.htm
このコラムを考えているときに、このサイトの文章を読んでああそうかぁ!と、考えを広げられる思いでした。
僕はこのコラムで短いスパンでの現代美術を相手にしているし、ある意味で作品もしくは美術の自由を放棄し、固定した見方で美術について書いています。
が、自分の限界を意識しつつこの文章を書く意味もあると信じて書いてみようと思いました。