昨日一昨日の二日間は、これから当分休みがなくなるので展覧会巡りをしてきた。友達の展示も含めなかなか充実した展示巡りだった。
知り合いの展示についてここに書くことはまだ少し抵抗があるのでやめにしておくが、行った展覧会、そのいくつかについて簡単に書いていこう思う。
まず最初に言ったのは、東京国立博物館でやっていた葛飾北斎展。異常な込みようで、なんだこれはーと思ったが入ってみるとさらにびっくりするぐらいの人、人、人。
展示の作品のサイズの小ささもあって、展示されている10%も見れていないかもしれないが、本物はカタログなどで見るよりも気持ち悪い印象がより強く、色はより美しいものだったことは確かめられた。
そしてやはり強度がある作品は、サイズや、メディウムなどに関係なく強くまた大きな作品に見えた。そのメカニズムは、僕にはまだまったくわかっていない。にしても家に帰って、カタログを見てみると北斎の独特の世界観に圧倒された。
人間も風景も何もかもが、いやあの気持ち悪いすべての線がリズムを作り出し、均質にそして過剰に生命力を持っている様は、まさにあの世とこの世の区別がないかのような世界に変容している。しりあがり寿の漫画の世界にまったく負けることのないその異様な世界は、ノイズの嵐とも言ってもいい。それは陳腐なイメージにたとえるのであれば、ノイズが消去された天国ではなく、ノイズの嵐である地獄絵だと言えよう。
ところで、「アワーミュージック」が、煉獄編の映像もまた、ノイズがすべてを息づかせている。それは、人間も、川も、言葉も、自動車も、建物も、すべてが均質に異常なまでに生き生きと見えてくる。同時にそれらはもしくは人間は、現実の中で生きているようには生きていない。死んではいないが、生きていない。それは北斎の中で描かれる人間と通ずるところがあると僕は思うが、ちょっと陳腐な言い方か。
さて話は変わって、アニッシュ・カプーア。この作品もぜんぜん違う意味ですごい。疲れた人とは、トリップできるかもしれないが、吐いてしまわぬようにご注意願いたい。

この漆でできたでっかいお椀のようなものは、歪曲した鏡として機能する。そこに映し出される像は、非常に不思議だ。距離によって映っている倒立した像や歪曲した像ががグワンッと変わる。
このようなお椀みたいな作品がいくつかあって、それらすべては色や形態が異なる。それによって動いたときの歪曲の仕方、もしくは像の変わり方が異なる事がわかる。
友達は、またこれらの作品によって音響効果も考えられていて音を出したときに、それも変化すると言っていた。また現実のスピード感と、映りこんでいる像のスピード感がズレルところも面白いと僕は思った。そもそも空間が歪曲しているのだから遠近感も歪むのだ。なるほどそれれらをずっと見ていると現実の距離感が喪失しかかり軽くめまいを覚えトリップする。
作家の目論見と作品の効果があまりにも一致していることに、一定の疑念を抱いたのはぼくだけか。
しかし、この拷問装置、実に良くできている。
ほかにもいくつか面白い作品を見たが、長くなるので最後の展示。千葉市美術館の「ミラノ展」(なんとシンプルなタイトル!)を観てきた。北斎のあれだけの人に比べて閑散としているとまではいかないものの適度な感じに空いている。しかし、ここにはレオナルドダビンチのデッサンが来ている。(千葉市美術館はこんな展示やって大丈夫なのか!!)

写真だと雰囲気(空間?)が壊れるが、とても雰囲気のある作品。当たり前か。何でこれがすごいのか。これをすごいと言うのは眉唾で単なるデッサンなんじゃないのか。と思われるかもしれないが、本物見ると本当にうまい。
そして、表情、目や口や鼻と、髪の毛の曲線がすべて対応して動きをつくり、そして首ラインが大きな相似的曲線となっている。頭部にボリュームを出すのではなく、首のもたげ方と曲線のリズムがすべて和音的に重層的な厚みを作っていると言える。この線がむちゃくちゃうまい。まぁ当たり前か。
また、頭のボリューム感はあいまいであるにもかかわらず、彼独特の明暗法によって、空間の中に頭部がぬう〜っと浮かび上がってくるような方法は、なんとも底知れぬ存在感を作り出していると言っていいだろう。まぁ石膏デッサンをやっていればわかるが図を描くことによってそこに何も描かれていなくても空間が描き出されるあの効果。それを単にボリュームを描くと言うことではなくてやってのけているんだからよくわからない。
この写真だとそれがずいぶんと半減していることは悲しいけれど。クレーはこの明暗法に大きな衝撃を受けている。また、ルドンの目をつぶる頭部の絵ももしかしたらダビンチのこうような人物の出現の仕方を意識していたのではあるまいか。
後ほとんどの作品は資料的な価値しかない作品だったが、最後の部屋にモランディーが三点。

これはまた非常に面白い作品だった。有名なつぼの版画が一点、添付した静物画が一点、それと風景画が一点であった。風景画は、浮かび上がってくる形と空間がぜんぜん一致しないことによって、不可思議な空間を作り出しているが、この静物の作品も地味だかなにやらおかしい。
作品を近くで見ると、絵の具は厚くしっかりと塗られ、かつしっとりとしながらも乾いた感じのするマチエルを作り出している。
しかし、この人の筆跡を見ると、描くプロセスが一様でないことが伺える。物のボリュームに対して筆の運ばれ方は一様ではない。
たとえば球体を描こうとする時、普通であれば、面や表面に沿うかのように筆を運ばせる(石膏デッサンで石膏を触れと先生が言うのはそういうことがある)。もしくは荒々しい表現主義であっても、強いフォルムを出すために、物のボリュームやフォルムに合わせて筆を運ばせるのだがそのようには筆を運ばせていない。
また、モランディーはだからと言って事物を無視して塗ることに専念して描いているかと言ったらそんなことはないのだ。彼は確かに物を観察しているはずだ。
面白いのは、彼の作品で描かれるものを、彼はまるで触ったことがないかのように描いている。と同時に彼は描くときの絵の具や筆の触覚性には異常に反応していると言うところだと思う。
つまり単に彼は視覚的な作家とも触覚的な作家ともいえないように思えるのだ。
展示ではそういうことを意識されていない作品とそれらが並べられるとできているところが歴然とするため、質に差がある展覧会は必ずしも悪いものではない。
作家が当たり前かのようにやっているような微細なシステムが、実は大きな内容を生んでいることに気がつくからだ。