前回のコラムで今年は終わりのつもりだった。が、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」を観て、この作品について何かを書いておきたいという衝動にかられた。
賛否両論の評価がでているのは知っていたが、僕にとっては期待以上の傑作であったと思っている。
宮崎アニメの特徴とは、X軸、Y軸、Z軸における水平と垂直の運動/物語を直線的に移動することだ。それはある意味で広大な空間(それと伴った時間)を使う西部劇を思い出させるところがある。
「風の谷のナウシカ」、「未来少年コナン」等の特定の環境設定だけではない。
「となりのトトロ」のネコバスに乗ったサキが言った「木がよけてる」という言葉や、「もののけ姫」のアシタカの「押し通る」という言葉からもわかる通り、どんな障害物があろうとも彼らはまっすぐに進んでいくことができるのである。
その意味からも彼の作品には、「移動」という形式が欠かせない。しかしただ、直線的な移動だけで作品が成り立っているわけではない。
それは彼が建築に多大な関心を寄せている事からもうかがえるだろう。
彼の問題は、直線的な縦横無尽の「移動」、と同時に「定住」もしくは「とどまる」という概念を常に混在させる。
天空を飛んでいる城「ラピュタ」は、外部とは完全に隔離された建築=島でありながら、空を移動し続けている。
それは「移動」と「定住」、物語における「行動する」ことと「どどまる事」(ナウシカにおける「捕虜」や「占拠」はそれを上手く示していると言っていいだろう)という相反する概念を混在させることのできる装置だと言っていいだろう。
宮崎駿におけるその直線の動きは、非常に巧みにスピード感を作り出し、観る者の情動に訴えかける最高の技術である。我々はそのもの語りの登場人物と同様にそのとき迷いを捨て、感情移入するのである。
彼はこのスピードのある直線の動きで今の評価を作り上げてきたと言っても過言ではないだろう。
しかし、この効果に対して一番疑問もしくは恐れていたのは宮崎自身かもしれない。
彼が作りだす直線の動きは、人を守ることもできるし、救い出すこともできるが、多くの人をも殺すこともできるものである。つまり大きな危険が伴っている。あのオウムのように、走り出したら誰も止まらないということ、そこには大きな暴力性がはらんでいる。
直線的で破壊的な力は、実は軍隊などよりもはるかに強く主人公がその力を有しているという設定、そこにおける反省作用として、「魔女の宅急便」は作られたはずだ。「となりのトトロ」では、その力を主人公の少女二人にではなく、トトロやネコバス等のもののけ達に与え、分離させたのだ。
しかし、それからの彼の映画の中では「飛べない豚はただの豚」のような自体が起こる。
ではどのような映画を作るべきなのか、おそらくずっと彼は考えてきたはずである。
宮崎はもう一度、「もののけ姫」において直線が持っている「暴力」の問題を本格的に取り組み始める。それはまず失敗に終わったと考えて言いだろう。そして「千と千尋の神隠し」も課題が残る作品だった。
「ハウルの動く城」で、その課題に対する宮崎なりの回答が用意されていたように思える。それは僕にとって大きな課題を突きつけ、と同時に希望を与えられたような気がした。おそらく僕はこの作品を当分忘れることができないだろう。
時間的/空間的な直線的な動き、直線的な移動、それ自体をやめることなく、それ自体を壊すこと。「ハウルの動く城」における課題とはそれだ。
それは、アニメにおけるショットとショットの無関係性が作り出した形式だ。宮崎が作り出すスムーズな流れ、直線の移動をズバズバ切断すること。
それの例としては、この映画の建築のイクステリアとインテリアの無関係性からも見て取ることができる。まるで四次元か何かのように、城の中にあるたった一つのドアは、複数の場所とつながっている。だから、ドアノブの回し方によって、行きたい場所に自由に行き来することができる。それと同時にタイトル通り城はたえず移動している。
この映画の前半では、今までにはない構図の安直さと、一つのショットにおける事物の単純な動きに驚かされる(それに加えいつもとは違う悪趣味にも近い派手な色彩)。
それが意味していたことは、単純に今回は、滑らかな移動を描かないということが明らかになってくるのだ。
なるほど今回も、X軸Y軸Z軸を縦横無尽に事物が動く。しかし、その移動と移動が、まるでつながらないのだ。つまり動きをつなげない。さっきは画面に対して直進してきたのに、次のショットではその動きとはまったく関係のない動きになっている。これは物語でも同じ形式がとられている。
そしてキャラクターの同一性すら奪われてしまっているのだ。キャラクターは、様々な声色、性格、年齢、表情に変わり、そこに意味があるわけでもない。
また、こういった空間/時間、もしくはキャラクターの同一性、連続性が奪われてしまっている中で、彼が今まで描いたこともないような階段のシーンというのは、非常に需要である。そこでは,そこまで困難とは思われないような階段を登場人物たちは汗だくになって上るわけである。それは彼が今まで作り出さなかった、直線の移動におけるスムーズさ/スピードを殺す抵抗だ。
彼らの直線に進む意志を捨てることなく、直線の暴力性を破壊すること。
ソフィーがいる環境は不気味であり不安に包まれている。しかし、彼女はその不安に飲まれることなく、かつ敵を作り出さない。敵か味方かはソフィーたちにとっては同じことだからだ。
彼らが不安や恐怖の中に身を置きながらも(単に世界との無関係性を言うのではなく)、けしてそれと向き合わない、飲まれない。そして自分の信念、欲望を持ちそれを押し進めること。
それは今最も意味のある暴力批判をしたということにならないだろうか。
まだ「ハウルの動く城」について書いていないことが多いが、バイトでもう時間がない。またの機会に書いていこうと思う。では皆さん良いお年を。