石川(以下I) 「前回のコラムではシャルダンの静物画について書いてみた。シャルダンはもともと好きな作家ではあったけど、前回のコラムでは漠然と選んだモチーフなんだ。しかしあのコラムは大きなきっかけを与えてくれるもののように感じられた。思考をここで止めてしまうことはひどく惜しいことだと思い、もう一度シャルダンについて君と語ってみようと思うんだ。」
友人X(以下X) 「いったいなんでまた対話形式なの。なんか意味あるの。だいたいここはどこなんだよ。」
I) 「対話形式もやってみたら今までと違うノリで語れるんじゃないかなと思ってさ。まぁやってみたかっただけだよ。
しかも、こんなことを語っているところあんまり人に見られたくないだろう。」
X) 「僕はそのノリに付き合わされるわけか。まぁいいや、不必要に長くならないでくれたまえよ。」
I) 「おそらく話は長くなる。なるべく短くするけどさ。
よし、では早速語り始めよう。前回はシャダルンの静物画を中心に書いてみたんだけれど今回は、シャルダンの自画像を中心に考えてみようと思う。なぜか、それはシャルダンが晩年描いたこの自画像に彼がやってきた様々な要素が凝縮されていると僕は感じたからだ。ではまず、その自画像を見てもらおう。」

X) 「一見普通の自画像に見える。しかしってわけだね。」
I) 「そう、確かに普通の自画像に見える。僕がこの作品から推理したことが、もしこの自画像だけで語ったとするのであれば、人は僕の誇大妄想にしか思えないだろう。けれども他の作品と比較した上で考えていくと、僕の推理も少しは説得力を持つと思う。
まず、これは二つの意味でシャルダンの中では少し異例の作品と言える。
1つ目は、シャルダンは多くの場合人を描くにしても、何らかのシュチュエーションとして描く作家だった。作品のタイトルを見てもわかる通り、作品のタイトルのほとんどは、個人の名前ではなく、家政婦や、看護婦、家庭教師と言った役職名もしくは、人物が行っている行為、例えばシャボン玉吹きやカードで遊ぶ少年とタイトルにつけていた。つまりこのような普通の肖像画=自画像を描くことはまれだった。
2つ目は、シャルダンの絵画は前回のコラムにも書いたところだけれど描かれる人間は、まずこちら側を見ていない。にもかかわらずこの自画像はこちら側をはっきりと見ている。
しかも、ただこちらに顔を向けているという訳ではなく、こちら側を鋭く見ているよね。そう、彼の顔は、ほぼ横顔を捉えているのに、目はこっちを鋭く見ている。」
X) 「君は相変わらず。その見返しの話が好きだね。それはでも絵画のイリュージョン空間と現実の空間が地続きであることを無条件に了解しているという前提の上で成り立っているんじゃん。
まぁ君が言いたいことはよくわかったよ。けど今の段階だと、シャルダンが晩年に普通の自画像を描いたということしか言っていないよ。」
I) 「まぁ、そうだ。今は彼の作品群の中で異例だということを示したかっただけだ。しかしなぜそれを描いたんだろう。そして僕はさっきも言った通り、この自画像が今までの作品の要素を凝縮していると思ってる。つまり、この自画像とそれまでの作品における問題点は地続きになっていると言いたいわけ。そしてよく見るとこれはただ普通に描いているとは思えないしね。
ということで、他の作品を見ていこう。」
X) 「ここでは彼が描く人物の特徴でもある、没入の表情が描かれているね。岡崎乾二郎が、ネット上に掲載されている「見ることの経験」で説明してくれているよ。君が説明するよりも、遥かにわかりやすいだろうから抜粋しよう。」
アブソープション――没入という概念は、こうしたシアトリカルな作品形式に対抗するためにもちだされたものだと言っていいでしょう。簡単に言うと、観客から見られることを前提にせずに成立する作品のあり方とでも言えるでしょうか。マイケル・フリードはその例としてフランスの18世紀後半の絵画を取り上げています。たとえばシャルダンの絵画の中に描かれた人物たちは、夢中になって本を読んでいたり、独楽で遊んでいたり、自分の行為に没入して、観客から見られていることをまったく意識していない。反対にそうした絵を見る観客にとってみると、なぜ、それを、どこから見ているのかわからない、いわばその見ている世界から、それを見ている主体自身が消去されてしまったような非在感(臨死体験のような)に襲われる。
X) 「岡崎乾二郎は、このフリードの「没入」の概念に必ずしも賛同していないみたいだ。まぁあんまり良くわかっていないから偉そうなことは言えないけどね。彼が批判している説明はとてもわかりやすかったし納得がいったよ。
ただ君が前回のコラムでシャルダンの静物画を自分がいない自分の部屋を眺めるような感覚と言っていたけれど、それは、ここで言われている非在感というやつ同じなんだろうね。」
I) 「まぁそうなんだろうけどさ。その没入が描かれている中でも、この作品は特に気になるところがあるんだよね。それは彼女の表情が、他のどの作品よりも漠然としていて、まるで人形のように、肉体に魂が宿っていないように見えるということだ。
それはこの作品だけということではないんだけれど、この少女が一体何に没入しているのか見ている側には全くわからないということからきていると思う。」
X) 「確かに、これは没入しているというより、目がイッチャッているかもね。う〜ん。」
I) 「しかもここで描かれている服が他の服ともちょっと違う。コルセットをつけられているにしてもこの上半身のフォルムは明らかにおかしいよね。
シャルダンは明らかに横から見た首というものには興味を抱いているけれど、多くのモデルたちに頭から足の先まで服を過剰といっていいくらい着させている。つまり、当時のロココ的なエロさというのは非常に抑えられているよね。もちろん彼が描く人物がエロくないかといったらそんなことはない。けど、その描かれる人間の身体は、まるで見られることを拒むかのように服で覆われてる。部屋なのに帽子をかぶっているのも当たり前のように出てくるしね。しかし、そのなかでいうとこの少女はめずらしく胸元が見えているんだよね。しかし、まるで円錐をひっくり返したような上半身で、胸膨らみなどは描いていないといっていい。
そして、この少女の下半身がどういう姿勢かは、スカートのボリュームでどうなっているのかよくわからない。」
X) 「あっ、ほんとだ。少女は椅子の上に座って、いや、椅子の上に立っているのか。でも、そもそもバドミントンしようとしている少女がなぜ椅子に。」
I) 「わからない。しかし椅子は少女の方を向いていないかもしれない。
あと、バドミントンやるなら鋏を腰につけているはずがない。だから彼女はバドミントンやろうとしているわけじゃないかもしれない。どのような状況に置かれているのかわからない。もしかしたら彼女は羽とラケットを誰かに渡すために持っているのかもしれない。
この少女が置かれている状況の不明瞭さと没入の表情と、この服による体の変形が決定的に彼女が生きている人間の伸びやかさを失わせている。これをふまえた上でこの作品に行こう。」

I) 「シャルダンはこのように獲られた動物たちをよくモチーフにしている。しかし、この兎の鼻先と台の接触するかしないかの場所というのは異常に緊張感が出ているよね。
これ以外にも、片足だけを吊るされた鳥や、台に置かれた兎などがあるんだけれど、その姿勢や置かれかたはどれもダイナミックでエロティックなんだよね。」
X) 「つまり死体が肢体をさらしている。」
I) 「うまいこと言うね。シャルダンが描く人物は、さっきあげた作品ほどではないけれど、柔らかくはない。もちろん肌の透明感や質感は、果物のそれと同様にしてかなりやわからさを持っているが、服のボリュームとその重さ、、また、没入ってだけあって人物は硬直とまでは言わないまでもピトッと止まっているからね。
それにくらべて、死体は筋肉は弛緩し、のびきっている。そして、人物の服とは正反対にものによっては皮は剥がれ、鮮やかな赤によって筋肉の新鮮さが描かれている。そう、人間の服装や、壁は地味であるのも関わらず、果物や動物という死んでいるものたちはそれとは対照的な色彩を放つことが多いんだよ。
ここでは人間と動植物の差が問題となっていると思われるかもしれないけれど、そうではない。なぜなら、こういったシュチュエーションで、生きた猫や犬がしばしば描かれてからだ。そして生きた動物は死んだ動物と明らかに対比的に描かれている。
例えば猫、描かれる猫はどれも警戒し体を強張らせている。」
X) 「それは猫は、人間もしくは、飼われている犬などの目を盗み、そこに居るからということだね。」
I) 「そう。そして犬は、主人の到来を待っていて何ともいえない表情をしている。それは猟犬は忠誠心かたまりであると同時に肉食であり、横にある肉に興味がないはずはないからだ。つまり猫のように盗むこともできないし、かといって死体に無関心にもいられない。」
X) 「生きた犬猫は硬直するもしくはも惑っている。それは、人間に見られることを意識するがゆえに陥る。死体の方はもう何も見えないし、何もわからないことをいいことに肢体をさらす。つまり見えないから見られることも気にしないという訳だね。」
I) 「ここで重要なのが、この吊るされた兎は死んでいるにもかかわらず目を開けている。しかも、死んでいるときと生きているときの差などないかのように目を見開いている。
あの絵で兎の目を気にしないことなどできないでしょ。しかも、あれだけ台との絶妙な距離感を意識しないわけにはいかない。そして我々は、あのようにつり下げられた兎の目に何も見えていないと思い出したとき、初めて死という存在が感覚として伝わってくるんだ。
生きているものよりも伸びやかに描かれ、さっきにあげた少女よりも、目の輝きを持って描かれているあの兎の大きな目は、と同時に兎に既に意識も感覚もないという事実は、アンビバレンツであるがゆえに死という想像し得ないものが立ち上がる。」
X) 「クールベが何度も眠っている人を描いているね。それは眠っている人が見られていることも、また自分がどんな姿をしているかも知らない。
でもクールベが描く眠っている人や、眠っている自画像も含めて完全に寝ているのかわからない感じがするよね。つまり、眠っているかのように装っているようにも見える。薄目を開いているような感じのやつもあるしね。それを断定できないにせよ、彼女たちの内面は完全な無感覚な状態ではない。それが原因なのかもしれないけれど、眠っているものたちを絶対に死んでいるとは取り違えない気がする。つまり死んでいるのと眠っているのをクールベは明らかに描き分けでいるわけね。」
I) 「う〜ん。眠っている人と死んでいる人の描きわけの問題ね。僕の友達も昔からそのことについて考えている人がいるよ。」
X) 「しかし君いっこうに自画像の話に戻らないじゃないか。どうするの。」
I) 「いや、今の話はすべて自画像の話と関係している。ということで後半は、ちゃんと自画像の話に戻りながら、いろいろな話をして行くとしよう。」
X) 「まだ前半か。君このテンション続くの?」
I) 「まだ言えていないことがあるし、シャルダンがそうすることによって何をしようとしていたかの考察の部分を語れていない。自画像のことは全く触れていない。だからがんばらなきゃ行けないと思っている。」
X) 「どうやら長くなるのは免れないらしいね。」