最近近所の古本屋で、モネの画集を見ていたら、モネの自覚的な絵のつくりに改めて納得したところがあった。モネのこの自覚っぷりが、つまらないと思うときもあるのだけれど、この前画集で見たときは、素直に楽しむことができた。
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そしてこのリンクの画像の作品。これが、改めて見るととても異様な感じがしたので、この作品について考えてみようと思った。この作品はモネの中でもとても有名な作品だし、僕が中学生のとき最も好きな作品の一つだった。
この日傘を持った人のポートレイトは、当たり前のようにすばらしいから、なぜいいのかについて今まで考えることがなかった。そして、今回改めてみるとこの作品を良いというよりも、少し異様な感じがしたように思う。
さて、この作品を語る前に、まずモネではなく、マネについて語ってみようと思う。それは目線の問題。
マネの作品で有名な「草上の昼食」。ここの作品の有名な形式的な問題の一つに「見返し」というものがある。
絵の中の女性がこちらを見返しているのだ。ただそれだけだが、この服を着た男たちと一緒にいる裸の女性がこちらを見返すことによって、そこでは絵画におけるさまざまな問題が暴露されることになる。この見返しが見る者と絵画における表象の世界との関係性を見るものに直接的に意識させた事件とも言っていいわけだが、今回はあくまでモネの問題であるからそこを深くは説明しないことにする。
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さて、マネにおいてそういった目線とヒエラルキー的な問題というのはかなり意識的に取り込まれているといっていいだろう。もちろんそれを彼はさまざまな過去の作家(たとえばベラスケスなど)から取り入れているのは間違いない。
僕は昔に、マネが描いたシェークスピアの劇を演じる俳優のポートレイトを見た。まだ高校生だったので何もわからなかったが、その作品がひどく見難さを感じさせるものだったことをよく覚えている。それは何故か?
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そのポートレイトは、構図としては上のリンクの画像と同じ感じで全身が入ったものだった。(しかし、この絵のようにオウムなどは人物以外の何かはなかった)そしてサイズは200号くらいあったと思う。
さて、あの作品になぜ見難さを感じたかを推測してみると、その俳優の顔を見ようとするとき、見上げるか、かなり遠くに離れないと見れないということ。そして、俳優の目線がかなり上あるから自分と目線がまったく合わないということだと思う。
そして、その俳優は演技をしているがゆえに、まなざしはある種複雑なものになっていて、かつ目線は上に向けられている。
そういったことが、見る者がその俳優に感情移入することを不可能にし、ゆえに、僕はムズムズとむずがゆさを覚えたのだと思う。つまり、演劇でいえば異化に近い効果がそこでは仕組まれていたのだと思う。
この俳優のポートレイトのほかにも「笛を吹く少年」など全身を入れたポートレイトをマネは多く描いているが、絵は床に置かれているわけではなく、壁にかけられているため、見るものの目の前には、腰もしくは足が来ることになる。
マネは明らかに観者の目線の高さと、イリュージョンの視点を意識的にしかも非常に巧みに操った作家である。すべての作品が、そういったことを意識して作っている。またそれは非常にモダンな意識の反映になっている(もちろん今話している形式の問題以外も)のが、彼をモダンの始まりとする所以だといえるだろう。
マネがポートレイトとして描くのは、だいたいが貴族でも神でもなく、庶民(現代人)である。そして、ポートレイトを描くとき、その人にどのような演出を施し、またどのような形式的な仕掛けを持たせるかで、その人のイメージというのは大きく変わってくるといっていい。(そういったことをわかりやすいのは、ダヴィットなどが描いたナポレオンの肖像だろう。)
つまりポートレイト(いやポートレイトだけじゃないけど)は、社会的なヒエラルキーと絵画的な形式の問題が、つまり視覚性と視覚の問題が不可分に結びついていることを考えなければならない。このポートレイトにおけるこの問題は、ほとんどを写真というメディアにゆだねられることになる。ただ、マネの問題は、写真では置き換え不可能な問題があるとも言えるが。
さて、最初の話に戻ろうと思う。つまり、モネの作品に。
モネのこのポートレイトが、どのくらいい大きいのかはわからない。この作品はおそらく本物を見ないとまるでわからないといっていいかもしれない。前述したマネの絵画がそうであるように。
けれどもこの画像からわかるように、この画家はかなり急斜面からこの女性を見えげて描いている。彼はなぜこの女性を見上げなければならなかったのか?
僕はこう推測する。これはマネの作品をモネなりに展開させようとしたものではないだろうかと。
僕は最初にあげた作品のほうがすごいと思っているが、マネとの関係をわかりやすく示すためにもこっちの作品もリンクを付けておこう。
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そう、彼はここで見返しを描いている。そして、顔が描かれていないものよりもより平面性が強く示されている。しかし、マネとはまったく趣が違うと僕は思う。なぜならこのモネの作品の見返しは、明らかにこの女性をミューズ的に描きたいという欲望が見られる。そのあからさまな感じに少し恥ずかしくなってしまう。といっても、このきらめきに子供のときはきらめいてしまったけれど。しかし、この作品でその安易さを救っているのは、この子供の存在とそのまなざしである。そうすることによってこの作品の中心性を少しぶらしている。
また、顔が描かれていない婦人の絵に話を戻すが、マネが絶妙な視点で絵を描いているように(僕はある意味でこれは演劇の舞台と観者の関係で考えなければいけないと考えているのだが)、モネもそれを意識しながら、さらに極端にぐっと仰いで見ることにしたのだと。
これはある意味で絵画の平面性を強調する正面性というよりも、平面性と奥行きの拮抗を生み出すものにしようと考えたのだろう。これが非常にアクロバットにかつ、明確に見えるのは、睡蓮のシリーズであると思う。
この作品でも見上げで遠近感が示されながらも、構成とタッチによってによって、平面性が強く意識されていることがよくわかる。
また、もう一つ僕はここで深読みをしてみたくなる。
この見上げの構図の意味を。
従来であれば宗教画を中心として見上げの構図、つまり空を仰ぐ場合、それまでの絵画は、空=天への関心を示すものであった。
しかしこの女性はまったく空に感心を示さない。そして太陽に完全に背を向けている。
ただ棒立ちで、向こうを見ている。そして見返しのもののように見る側にも関心を示していない。ただ漠然と前に広がる風景を見ている。
そこでは前述したマネの俳優のポートレイトとはまた違う感情移入の不可能性を作り出している。
それは一つにマネのそのポートレイトはあくまで正面性で捉えられて描かれているのに対して、モネのこの作品は、アングルが見上げになっている事によって目線が合わないように作られているからである。
そしてもちろん、モネは空を天とは考えていない。また、従来であれば、光は対象を照らし浮き上がらせるのに影を作り出すものとして光が使われている。むしろ現象を描こうとしている。つまり空を天とは考えず、雲や太陽や風などに目が向けられている。
けれども僕は、この作品にそれ以上のものを感じる。
はたしてこれをポートレイトといっていいのか?顔を描いていないし、モデルも棒立ちではないか?そう言われるかも知れない。しかし、見返しの作品を見ればわかるとおり、この女性の存在感を彼は描こうとしていたことは明らかであり、かつその演出としてもこの日傘を巧みに使おうとしたこともあると僕は考えている。
しかし、この習作かもしれないこの作品は、逆にミューズではなく亡霊的な存在感を放っている。
そこには描かれていない太陽と、日傘と女性とその影の関係性がそれを作り出しているのかもしれない。そしてスカーフと影と、草の斜面が彼女の存在を危うさ引き立てている。
太陽と風に背を向け、急斜面の丘の上に立つ顔がない女性をしっかりとしたフォルムで描くことによって亡霊のような怪物のような存在感が浮き彫りにされていると思うのはおそらく強引な僕の妄想なんだろう。