まずはじめに。このコラムは、全くひどいです。まとまりを持たせることが全然できませんでした。文章としては本当に最悪なコラムです。落ちもありません。それでいて,無駄に長いです。本当にだらしがないので、ほとんどあきれかえる人もいると思います。けど書いてしまって、消すのは忍びなく。そう限りなく自分に甘く載せてしまいました。とりあえず、「千と千尋〜」を適当にほめたのはまずかったとそれだけなので、特に無理して読まないことをお薦めします。
前に「千と千尋の神隠し」について書いたが、このコラムに関しての反省点はかなりある。
僕としてはこのアニメ映画において千尋という存在を無視して、建物の描き方について語ったこと自体はとてもよかったが、湯屋の描き方はともかく、湯屋の構造までほめてしまい、この作品を評価しているかのようなことを書いてしまったことが最大の反省点である。なぜなら、そもそもこの湯屋の建築の図式のずさんさ、湯屋という建築の失敗が、この作品の失敗であり、宮崎のうさんくささであり、ずるさであるからである。
まずコラムにも書いたがなぜ湯婆婆は、いつもあの建物の最上階にいるのか?かつ、なぜ湯婆婆はいつもいろんなことを見落とすのか?なぜ、従業員たちは最上階近くで(つまり湯婆婆が住んでいる階の近くで)寝起きしているのか?
僕はそれを湯婆婆と従業員の信頼関係を描き出すためだと書いたが、それこそまさにうさんくさいのであり、湯婆婆の存在を中途半端なものにしている。
この映画では、千尋の成長物語ではあまりにも下らないし、描けていない。とするのでするのであれば千尋がいかに世界を変えたのかという物語になるはずなのだ(ナウシカのように)。
にもかかわらず、宮崎はこの世界の図式を本当に中途半端にしか描いていない。そのだらしなさ、うさんくささがこの建築に如実に現れていると言わなければならない。
もちろん、だからといって、図式を作ればそれでいいのかというとそうではない。そもそも、「もののけ姫」の図式性の強さは、逆に作品のうさんくささを強めている。
そもそも、宮崎が一番まずいのは、自分が国民的な作家だと思い込みすぎているところにあるのではないだろうか。もしくは、宮崎はアニメよりも自己愛で作品を作っているといえる。だから彼のアニメいがには混乱がない。彼がわかりやすさを回避するために図式をうやむやにするのは、混乱ではなく、ヤバい意味でのご都合主義と言えるのだ。つまり混乱はない。
彼の最近の作品は、自己の表出にアニメを従属させている安易な態度にすぎないと言える。
高橋洋は、これをスピルバーグの映画において言及しているが、スピルバーグは確かにその危うさの中にいるが、彼の作品には間違いなく今も混乱を呈しているものがある。つまり、僕はスピルバーグを簡単に切り捨てることができない。むしろ彼はまだ戦っているのだと思う。
けれども、彼はなぜまだこのようなアニメを作ろうとするのだろうか?
彼の作品が、むしろ世界の図式などとは関係なく、職人に徹した作品、もしくは本当の意味での子供のための作品を作るべきなのではないか。その気がないのであればと僕は思う。そうしないのが宮崎のまさに自己愛の強さなのかもしれない。宮崎よりも大友のほうがまだそれができているような気がする。
宮崎の職人的な気質。それはこの前も書いた通り面白いところがないというわけではない。
そもそもアニメとはいったいなんであるのか?僕はそれを考えるほど、アニメに興味があるわけでもないが、今回少し考えても観ようと思う。
そもそも、彼らは映画のように撮るわけではなく、ただひたすら描くことによって世界を、物語を構築していく。そこには撮るとは違うどのようなものが発生してくるのだろうか。ここではあえて、アニメと言ってもセル画など手法を用いている、つまりクレーアニメなどではなく「描かれた」アニメにしぼって考えていきたい。しかも、物語があるアニメを。
いかに自由に世界を描くことができると言っても、アニメが物語っていくためには(この言い方は少し語弊があるかもしれないが)、現実とはそう切り離して描くことができないのは当然である。
ましてや、宇宙空間やとても抽象的な場所ではなく、どこか特定の環境を描く場合、その場所の様々特徴や構造を描き出さなければならなくなる。けれど、そこでは映画よりも遥かに自分が住んでいる環境に縛られるところが少ない。中国でもアフリカでも、ヨーロッパでも、未来都市でもどこにでも設定することができる。けれども、映画のように撮るのではなく、全て描いていかなければいけないわけであるから、映画よりも強く風土的なイメージが強く出されることになる。
宮崎は国家的なイメージにおいては折衷的なイメージを作るが、高畑などのリアリズムの作家はとても、その国の風土を的確に描き出そうとしている。おそらく、「茄子 アンダルシアの夏」においてこの映画の監督は、この映画を作るにあたってそういう姿勢はかなり高畑の姿勢を意識していると思う。
さて、では大友はなぜ「スチームボーイ」をロンドンにしたのか?しかも19世紀の。なんで未来ではダメだったのか?なぜ架空の国ではダメだったのか?もしくは日本ではダメだったのか?やはり「スチーム」でなければいけなかったのか?それはあの映画を見たときにひどく気になった。
では、その風土的な問題と言ったとき、宮崎はリアリズム的な立場を取らないとして、それ自体僕は悪いと思わない。ただ「千と千尋の神隠し」の折衷ぶりは確かに悪趣味に思えたけれども。リアリズムはある意味で現実の空間に従属してしまうことによって、しばしばアニメが持っている空間や環境のダイナミズムみたいなものを殺してしまう場合があるからだ。
まず僕が宮崎アニメの中で注目したいのは、距離の描き方である。宮崎の作品は距離の描き方というのはとても上手いと僕は思う。彼の映画はだいたい主人公がある村や国からでて、どこかへ向かう。たとえば、「となりのトトロ」では、メイが母親の病院まで一人で歩いていくわけだが、このときメイの移動は一つ生死の危険が関わるような大きな距離として描き出されている。「となりのトトロ」はある意味で彼の作品の中で、日本の風景をリアリズム的に描いている作品だが、彼はここ日本において、生死の危険を観る者に意識させるような距離を描くことに成功している。
この生死に関わる移動というのを映画の中でもっとも上手く映画いたのはすぐれた西部劇であるが、ここ日本でそのような距離の描き方がしたという意味では最も優れているものの一つにこの作品は入ると思う。
ちなみに、風景のリアリズムに徹した「茄子 アンダルシアの夏」が、自転車のレース、つまりある距離の移動における物語にしたのは、僕にはとてもおもしろいことのように思える。そしてアニメにおいて、距離を描くということは一つの大きな課題なのではないだろうか?
宮崎の話しに戻るが、宮崎の場合距離とはだいたいが、一時的な離散において描かれる場合が多い。それは必ず物語の主人公が、自分の心休まる家もしくは故郷から離れるようになっている。
それはある意味で自立や成長物語のきっかけであり、そういってしまえば単純なのだが、子供のときはずいぶんとハラハラと観た覚えがある。
また、そういう移動の問題だけではなく、空間の描き方にも注目しなければいけない。それは彼が描くところの上手さは、おそらく「距離」よりも、「高さ」のほうが遥かに認知されているだろう。アニメにおいて彼ほど「高さ」を観る者に意識させる人は他にはいないのではないだろうか?
もちろん彼の作品において、空の描き方は忘れてはならないわけだが、今回はあえて前回書いた建物に注目してみよう。
しかし,書いてみたら全く収拾がつかないので、覚え書き程度で。
まず「吹き抜け」、「煙突」型の建物が多い。ラピュタの竜の巣、つまり竜巻の構造は、ある意味で象徴的なものなのかもしれない。ラピュタでは、ほかにも空から降ってきたあのロボットがかくまわれてきたところがそうである。
「千と千尋〜」もそうだったけれど。
また、トロロの住んでいるところもまた塔みたいになっている。
もちろん彼の作品において建物の構造は空間のダイナミズムを描き出すための手段であるために、内部の空間は、無駄に広々していると言えるだろう。つまり彼の作品で出てくる建物の多くは、二つの空間になっていることが多い。地下と地上。つまりやたら建物は高いのに、階数がほとんどないのだ。ナウシカがアスベルともに落ちていった樹海がそういう構造になっていたように。
宮崎アニメには、まず屋上がない。つまり平らな屋根がない。屋根は常に急斜面である。
また大きい建物とは対照的に、小さな部屋というものが、宮崎の作品には存在する。主人公は、だいたい小さな部屋に住んでいる。間違いない。<例外>「となりのトトロ」けれどもトトロは小さなところに住んでいる。
う〜ん、話しがどこに行くのか分からなくなってきてしまった。本当に収拾がつかないなぁ。本当は「キリク」で感じたこととかもまぜて、一つの疑問みたいなものを提示していきたかったんだがけれど。まとまらなくなってしまったぁ〜。すみません。