ワタリウム美術館で展示、ラリー・クラーク「pank picasso」を見てきた。その日はいくつか用事があって、雨の中都内を動き回っていた。で、ついでに資生堂ギャラリーのシムリン・ジルの展示も見てきた。
二人とも写真を中心とした展示だったのだが、二人の写真/展示の意識は大きく異なっていた。
ラリーの展示は(
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html)、資料館的な展示であり、写真も作品でもありながら、同時に資料としての写真として考えられている。つまり写真が作品なのか?写真は優れた資料なのか?まぁまるでポストモダン的な写真の命題はおいておいて、とにかくそのように考えられている。
シムリンの場合(
http://www.shiseido.co.jp/gallery/current/html/index.htm)は(ちなみに彼は写真家ではない)、写真が横一列に並置されるのではなく、壁にバランスをとりながら配置されている。
またその写真が隣の小部屋においてあるオブジェの山(シムリンが海などで拾ってきたもの)と緩やかな関係性を持つように展示されている。それは一つに写真と展示における一つのバランス感覚によってせいり。つまり一枚の写真で自律しているわけでもなく、かつ展示方法は一つの自律的な意味を帯びていて、展示などにすることに(この作品は写真集にもされている)よって初めて成立する作品になっていると言える。
この資料的な写真展示と、インスタレーション的な写真展示、それの差異と相互性は、美術における写真の意味と意義を考える上でも、これからも重要な問題になってくる。
またこれは美術では、マイクケリーやマークダイオンの問題とも繋がってくると僕は考えている。
ただ今回の2つの写真展示においては、ラリー・クラークのほうが優れていたといっていいだろう。シムリンは正直優等生ではあるにせよ、面白いとは言えなかった。
今回の展示では彼の回顧展とも言えるような展示、まるで彼の人生を作品にしたような自伝的な、もしくは私小説的な写真展示だった。
私小説的写真、私写真。これは日本においては荒木などに代表される写真のジャンルとも言っていいが、それのアメリカ版である。
ラリー・クラークは、アメリカのそのような写真の典型をなしているといっていいだろう。悪で、賢くて、汚くて、女が好きで、男も好きで、友達は死んで、世界は最悪で、ドラックはやっぱり最高。
俺たちはピュアだから弱い、楽しいから悲しい
、みたいな。初期の写真集は、ジャー・ムシュを思い出させる。もっともジャー・ムシュは、もっと淡々としてるけど。
ただ最近のラリー・クラークは、もう昔のような衝撃を作り出せずにいる。彼がわかったのか、時代が変わったのか、両方か。これをみて、ファンキーなおっさんがアメリカにいるんだねとか、ステレオタイプなアメリカの不良だねで終わってしまうかもしれない。それはある意味で私写真の限界でもあるような気がした。
彼は写真におけるモダニスティックなスタイルを拒否している。写真家なんてくだらないと彼は思っているかもしれない。彼は写真のスタイルとは違うところで勝負してきた。それはある強度を持ちえていた。
けれども彼は自分たちもかつてよりもずいぶんくだらなくなっちゃったと思っている気がする。彼が少年に異常に執着するのは、少年にその幻想を託しているからだろう。
写真自体では勝負しない。けれど今、自分たちのアイディンティファイで勝負してきた彼が、その自分の限界を一番わかっているように思える。彼が映画に手を出したのもよく理解することができる。昔のように自分たちの日常が何か特別なものを紡ぎだすことが難しくなってきている。
これはある意味パンクの難しさだ。
しかし、おそらくラリーの良さは僕はあると思う。みんなが評価してくれるということではないが、等身大の彼が作品に反映していることには、少なくとも僕は好感が持てた。まず彼の写真は、可能性とはうつらないが、一定量のみずみずしさと魅力はあった。まぁこういう人がいてもいいよねと、思った。