芸術とは質問を発さなければならない
ブルース・ナウマン
大塚英志の「戦後民主主義リハビリテーション」という本の中の、同名のコラムを読んでいて、僕が最近コラムに書いたことは美術だけではなく、いろんなジャンルで起こっているわけで、かつそれを批判している人というのもちゃんといるんだなということがわかった。
そのため大塚の「戦後民主義のリハビリテーション」を引用しながら考えていこうと思う。
「文学界」の新人賞の選評で(2000年12月号)で浅田彰が面白いことを言っている。今回の新人賞の候補作に残った作品がまるで「20世紀後半の文学はなかったことになっている」かのように古典的な「文学」を因襲していることを指摘した上でこう記している。
<実は、同じような現象はほかのジャンルでも目につく。少し前までは、抽象芸術とかポップアート、現代音楽とかフリージャズやパンクロックを意識しながら、とりあえず芸術大学に入るために石膏デッサンやクラシック音楽の勉強をするといった態度が普通だったのに対し、最近の若手の多くは、まるでそれしか知らぬかのように平然と具象絵画やメロディアスな音楽を−正確に言えばパロディーの意識を欠いたそれらの模造品を量産してしまうのだ>(中略)「今回の候補作のほとんどが、無意識に死後の復活を文学的と思っている」(山田詠美)という指摘があるように、何というか僕たちの年代から見ると、とうに壊れてしまったはずのものが実に屈託な復活してきている、という事態がたった今、文学において起きているらしいことがわかる。(中略)問題なのは復古そのものよりもむしろ、一度それが壊れてしまったはずなのに、という前提がすっぽり抜け落ちているということにある。
(中略)文学は文学なりに、サブカルはサブカルなりにこの20年だけでもいろいろあったんだよ、というところがすっぽり抜け落ちているのだ。だからといって彼らに悪気はない。何というか彼らは「文学」とか「物語」とかを「制度」として疑うことに対して、まったく無垢なのだ。
さて、ここでいわれているのは単に具象絵画の批判だけではない、50,60年代の現代美術をそのままやろうとしている人たちがいるのを知っているが、この人たちへの批判でもある。また引用に戻る。
これは世代間の問題とはちょっと違う。こんな事態になってしまったのは実はこの二十年間あまりにいろいろなものを調子に乗って壊しすぎた結果なのではないか。「文学」という制度があってそれを解体させつつより新しいものに更新していくのではなく、本当に救いようもなく壊してしまい、そして壊れてしまった。
その「すべてが心底壊れてしまった」自体を宮台真司は多分、「底が抜けた」と形容しているのだが、問題なのは壊れる過程に立ち会いあるいは加担していた人間と、壊れてしまった後に出てきた世代との埋めようもない乖離である。
この心底壊れてしまった状態からのリハビリテーション。そこに対する意識の世代的な不連続性。しかし、歴史を勉強すれば、誰だって壊したことの意味もある程度理解できるはずである。リハビリテーションがいかに難しいかということだってこちらも同じである。ただ、たしかに芸術におけるリハビリテーションの意識がまったく皆無な人も多くいるだろう。すべてなかったことにするということが簡単な人が多すぎるのは正直ひどく困った状況だと思う。僕は、やっぱり壊した側の連中ではない。けれども、壊したやつらの注文ばかりも聞いてられない。作家になったからには何かを始めなきゃならないんだから。
作家の難しいところは、そういうことも踏まえながらも作品を作り続けなければいけないということである。今では全体のこと、歴史のことを考えることは作家として無駄なことと思われがちだが、もともとは当たり前のことのはずだったのだ。
しかし、全体のことを考えながらも自分の作品を作るという人が、あまりに少なくなっている。
そして美術には批評家がほとんどいなくなってしまった・・・。
当たり前のことだが、作家としてやっていかなければならないこととしてこの三つを上げてみた。
自分の作品におぼれてしまわないこと
世界を見ること
作家として何かを成そうとすること
これは一つのリハビリテーションの鍵であると思う。
何かを成す、それは何度も何度も同じところの線を引き続けることによって、(絶対に同じ線は引けない)つむぎだされる厚みなのではないか。
ウォルトディズニーが、アニメの色彩とフォルム、運動、音によるアクションにあれだけこだわり続けることによる厚みは、壊れたものを直す一つの方法だと思う。
僕が思うのは、確かにすっぽり抜けて古典に回帰するのはまずいと思うが、今日的な状況の中で、ディズニーが探求したような形式性を積極的に見出していくことが一つの新しさを作り出しながらのリハビリテーションとなりえるのではないかと、というか僕はそれしか思いつかないだけだけど。単にフォーマリスト(それが一番やだけれど)になるのではなくて、何かを探求し、何かを成そうとする姿勢。
ゴダールやディズニーやマティスのように、えんえんやり続けることのできる何かを見つけること。単に彼らの模倣をしろというわけではなく。自分なりに今なりに。だから同時に世界を見続けること。自分の作品におぼれてしまわないこと。う〜ん難しいぃ。