昨日ナディフに行ってきました。先週も原宿にようがあってナディフに行ったのですが、先週と今週では本の配置が変わっていて、一週間で並び替えるんだなぁと感心してしまいました。ところでなぜかナディフではアンディー・ウォーホルとエドワード・ルッシェのまとまったいくつかの画集が目立つところに置かれていました。
二人ともにいい画集が含まれていました。
ルッシェは、コンセプチュアルアートの流れから、ペインティングと写真において大きな功績を残した作家です。
ルッシェは、単語や短い言葉をペインティングの中に書き、背景はさまざまなシュチュエーションになっている。映画でタイトルがでてくるときの状態をイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。
たとえば、ある風景の上に「THE END」とあるフォントで描かれている。そんな簡単な構造を延々コネ繰り回して作ってきた作家です。
美術教科書などで有名なやつは「HOLLYWOOD」とかです。
さて映像と文字の関係は、飯村君が前に書いてくれた記号論のコラムを読んでいただければわかると思いますが、広告とは違い、意味が決定不可能になることによって、文字と映像が持っているインフォメーションの機能を不能なものにすることによって、起こっていることの意味の多様性を紡ぎだしているといえます。たとえば、イメージとテクスチャー、イメージとテクストの関係、空間と時間の関係、因果関係。しかしそこで起こるすべてのものはほとんどが決定不能になっている。
さて、ルッシェと同じように文字の問題を扱ってきた作家で、ローレンス・ウィナーという作家がいます。彼もまたインフォメーションという概念について考えている作家ですが、彼はルッシェよりも詩的な印象を持っています。
ウィナーは何も伝えないということはしなく。あるトートロジ(同語反復)などや即物的な言葉を使いながら、さまざまな支持体、さまざまなシュチュエーションなどを用いて作品を作り上げていきます。確かにそれはある意味では反ポエジーなのかもしれませんが、今日的にみればとても詩的に印象を持っていることがわかります。意味のカテゴライズや、言葉と物質の関係、タイポグラフィー、現実空間と言語空間の関係、言語形式などを使うことによって、どう空間やイメージが立ち上がってくるかという問題を延々やっている。そして彼は、ロシアアヴァンギャルド概念を(もちろんロシアアヴァンギャルドは絵画、建築、タイポグラフィーとさまざまなジャンルを超えたものとして捉えていたわけですが)自分なりに解釈していくか?というのもテーマのようです。彼は文字を使っていますが、トートロジーであったり非常に即物的なところからも、抽象絵画やミニマリズム的な傾向があります。そういったなかで、文字を壁や、鉄や、建物や、道に書いていくことによって非常に物質的な問題を孕み、また空間的な問題を持っています。
さて、面白いことにそうなる文字やサインが書かれたオブジェや装置を作り出していったマルセルデュシャンや、キュビズムの関係が見えてくるかもしれません。そう、間違いなくデュシャンは言語と視覚や、言語と装置、言語と絵画、非常にたくみに作品化した作家です。その流れで見ていくとウォーホルは映像を言語レベルまで引き落とすことによって(写真をシルクスクリーンにしてしまうことによって)、さらにそれを壊すことによって(映像を反復し、並列することによって、もしくは色を平板に塗っていくことによって)作品を成り立たせている。
ルッシェのインフォメーションの不能さ、ウィナーの即物性とトートロジー、ウォーホルのシルクスクリーンや反復による異化効果は、ある種意味内容などを剥奪することによって、ほかのさまざまな細部が見えてくるというものであります。
さて、最近海外の雑誌でダグ・エイケンとルッシェの対談がありました。英語なのであまり読んでいないのですが、ダグ・エイケンにとって、いかにルッシェの存在が重要であるかというようなものでした。これは僕の考えではひどく自然なものでした。それだけ、エイケンの中には、ルッシェの刻印が見えたわけです。
それは前に述べた雰囲気(イメージのたがが外れ、形式という構造の可能性をどのように展開させるべきか)という形式が関係すると考えています。
なぜルッシェ/ウォーホルかといえば、イメージというものを肯定的に捉えながら、ただ単に具象絵画としてではなく、一つの形式を作り出しているからということでしょう。さらにいってしまえば、デュシャンとモダニズムの融合の可能性としても考えていけるでしょう。(これはさして新しい考えでははありませんが)
モダンとポストモダン限界をこれからどう統合し、また切り開いていくのか?といったとき、モダン以前に退行するやり方と、モダンとポストモダンの間を切り抜けていく、という二つの大きな方法論がでてきていると言えるでしょう。
しかし、このような状況論的な問題、前提はとりあえずもう言い切ったというべきかもしれません。しかも、こういった状況論を話したところで可能性はそう簡単に生まれてこないことがわかります。
そうなるとこれから個々の作家に向かうべきか、それとも芸術というもの自体がなんであるのかをもう一度問い直してみるべきか。
これからまた、考えながらコラムのほうを展開させていこうと思います。