先日小山登美夫ギャラリーにて福井篤の展示を見てきた。彼の作家としての変化は、ぴあで見ていてなんとなく予想はしていたが、思ったとおりだった。しかし、その感想は思った以上にひどいものだったと言える。
ただこれを良しとする人も何人かいると聞き、福井篤を美術における例外としては受け止めることができず、多少なりともこの現在の美術に対する反省と確認をしなければならないと考えた。
なぜなら、周りの人がどんなに否定的、もしくは無関心になっても、僕だけは現代美術に好意的、積極的な姿勢で見ていかなければならないということをモットーにしていた自分が、この展示を見て今度ばかりはいい加減愛想がつきそうになったからだ。
それほど軽蔑に値する展示だったと言っていいだろう。このように言うと逆に関心をもたれる方もいるかもしれないから本当はこういった展示は無視しなければならないのかもしれない。
しかし、先ほども言ったように福井篤は今日の現代美術においてけして例外ではないのであり、なぜこうなったかを考えていかなければならない。
福井篤の作品をひとまず説明していこう。非常に簡単に説明することができる。それはメルヘンな会田誠である。アイロニーなき会田誠である。そこには、パステルカラーの色彩で、童話のような、宮崎駿ファンタジーのような世界が広がっている。
そして確か毛皮のようなもので服がかかっていたりもする。
絵自体は本当によく捉えてあげて、アルフォンスミュシャ(僕が嫌いな)の油絵みたいなもんである。
最近やたらと、きらきら光るものをまぶしてある絵、毛皮や動物の剥製を作品の一部に使った作品を多く見かける。これはいったいどういう流れなのか?(日本におけるそのようなものの特徴はそこに全くの必然性が感じられないということである。)日本以外ではまた違う文脈があるわけだが、日本ではだいたいこれくらいのもんであるということで説明しよう。
これについて考える上で、今川村美術館で開催されているロバート・ライマンについて考えることは、流れ的に説明がつきやすい。
ライマンはミニマリズムのカテゴライズされていた作家である。白の絵の具を使い、モノクロームの作品を作り続けている作家である。彼は彼なりのあらゆるテクニックを使い、作品を成立させていく。しかし、そこには具体的なイメージはたち現れず、絵の具の質感、筆の幅、筆跡、支持体のありようなどを巧みに操作していくことによって、独特の印象、解釈を作り出していると言える。
彼のそのテクニック的な試みは、見ているこちら側をずいぶんと楽しましてくれる。
しかし、彼の作品は、確かにドナルド・ジャッドとは異なると言えるかもしれない。それはライマンの作品が素材の見せ方に依るところが多いからである。ジャッドがアルミ素材を使うことや工業製品的にするのは、そのようなテクニックを排除するところにある。
ライマンの作品は、唯物論的で存在論的な思考が際立って見える作品がある。それはミニマリズムの可能性でもある。それは、僕はひとつの美術としての大きな可能性であると考えている。
しかし、確かに先に挙げたような特徴から、唯物論的神秘主義がマンネリ化し、下手なロゴス中心主義(決まりきった世界の中でわかるやつにはわかるといったような)や、もしくはフェティシズムや工芸的なものになりかねないという問題を孕んでいる。
それに関して鋭い批判の力を持っていたのは、ジェフクーンズということができるだろう。
なぜなら、彼はすでに権威化した、神秘主義的唯物論としての作品の価値を批判し(なんてったってライマンのある作品は4億円するらしいんだから)、そのシステムを暴露するために、資本主義的な意味で価値(つまり高額なという意味)のある物質やテクニックを使うことによって、高額な作品を作ったからである。
しかし、クーンズの作品を構造面で見ていくとモダニズムとの対応関係を見つけることができる。すると、彼の作品の価値付けるものはアメリカモダニズム美術の価値に対する反省材料として大きなものと。これは非常にアイロニーである。
そして彼はイメージとしても、ポルノグラフィーやアニメなど誰もが欲し(ポルノグラフィーやディズニーグッズがあれだけ売れるように)、アメリカ型資本主義的な欲望を掻き立てるようなものソースとしてを使用する。もちろんクーンズの場合、そのイメージを壊すことによって、もしくはナンセンスにすることで作品を成立しているわけである。これはつまり資本主義的な価値に対する批判でもあることがわかる。(会田誠はこのナンセンスさを持つことによってぎりぎり正当性を確保しているのだ)
そして、クーンズらのこのアイロニーなき、この「あえて」なき、テクニックなき、資本主義的な価値ばかりを気にした(最近の日本人が剥製や毛皮を使うのは、きらきら光らせるのは結局その程度のことである)の絵画の増殖したのである。クーンズのラディカルさなど言うものどこにもなくなり、クーンズのアイロニーは逆に、現代美術をさらにおかしな方向へと推し進めたことになる。
クーンズかっこいいよね、マイクケリーかっこいいよね。村上隆かっこいいよね、奈良美智かわいいよね。いいよね、いいよね。やっぱり俺たちもああしないと乗り遅れちゃうよ。やろうぜやろうぜ。やるのは構わないのだが何をしているかをちゃんと見てほしい。またそれしかないなんて思わないでほしい。
小谷元彦がやくざな美術がやりたいって、やくざって何ですが。商業主義の卑猥さを前面に押し出していくことでしょ。ほかのジャンルの作家を見てください。誰もそんな卑猥さ好きじゃないですよ。そんなにガキのカッコウつけだけで成立するのが美術だったっけ?
こればっかりになってしまうと当たり前だが、ほかのジャンルの作家たちから軽蔑される、もしくは無視されている現実を免れない。現代美術の弱体化、卑猥さも著しいものになっている。
これだったら古かろうがなんだろうかどうひっくり返ってもまだライマンのほうがましなのである。
申し訳ないが、それならディズニー映画かディズニーグッズを買ったほうがましなのである。ディズニーアニメはもっと色彩が考えられてるし、グッズはもっとうまく光ってますよ。
少女漫画の絵のきらめきは、単にキラキラしているからじゃないでしょ。
クーンズのような暴露によるアイロニーはほとんど意味を成さないということだ。21世紀になってそれはますます厳しいものになってきている。とするならば、どうすればいいのか?とすれば自分の持っている手段やテクニックを使って、どうにかしてなんだかわからないものを、もしくは自分が知らなかった何かを、もしくは、想像できないような何かを想像しようと、探求しようとすべきである。
それがどんな表現であれ、何かに向かおうとしている真摯な姿勢さえ見えれば、人は感動すると思います。せめて絶望はしないはずだ。何かはいまだ発見できることがあると思うよ。
あらゆるジャンルの作家たちが雑誌などで、芸術との無関係性を提示されている。(こういう人たちが美術や芸術を誤解していないとは言わない。だから僕だって美術をやっているわけだ。)もちろん最近騒がれているから美術を利用しようと思っている人たちもまた多いだろうけれど。
美術をやっているなどということは、クリエーターの中で最も恥ずかしい存在だと思われる日はそう遠くはない。というか、もうほとんどそうだろうけど。
今、日本で美術が美術らしく展覧会を開けることができるのは、結局のところ、もともと美術じゃなかった70年代の写真家たち(森山、荒木、中平など)だけなんだろう。それは適度な大衆性と、政治性と、形式と、社会性を備えているからである。
しかしあれは写真であって、現代美術ではなかった。現代美術は、日本でも確かに存在していたのだ。
こんなこといっても何も始まらないのであれば、もう語る意味は何もないな。