これはフォーマリストのつぶやきなのか?まず僕はフォーマリストなのだろうか?わからない。けれど自分がフォーマリストでだと言われるのは好きではない。そしてフォーマルリストと呼ばれるほどフォーマルな問題が作品でできているか、と言えば確実に否である。
ただ、確かに僕の作品は、何かを語ろうとしている作品と、語るということについて語ろうとしているものがある。
今ここで、「語るということについて語る」ということについて語ろう、とすることはやめることにするが、そもそもなんでこんなことを考え始めるかと言えば、もともと僕が推理小説が好きだったからかもしれない。推理小説とは、虚構における論理的なスリルを作り出さなければいけないわけで、現在の推理小説作家なら誰しもがその意識に対して驚くべきほど神経症になっているからだ。
そしてこの言い回しは、最近呼んだベイトソンという科学者であり、思想家でもある人の話でもある。
そして確かに、前者より後者のほうを真剣に考えることが多いかもしれない。それはひとえに語ることがいかに難しいかという問題意識から来ている。語るというのはけして物語をというわけではない。
たとえば一枚の写真を見るということだけで、ある衝撃を与えるためにはどうすればいいのか?写真が見る側にメッセージを発信するためにはどのようなことが必要になってくるのか?と言うことについて考えることである。しかも現在においていくつかの制約(単純に制約としてしまうのは危険であることは十分に考慮に入れながら、逆にその制約を非常にポジティブに捉えられるようにしたいという思いが僕にはある)があるなかでどうやっていくかという問題である。
僕には、馬鹿みたいだが、表現してみたい主題というものがある。しかし、それが簡単には表現できない。どうしたら伝えることができるのか?それを試み続けながらもいつも失敗に終わる。今はまだ全く手の届かないところにそのテーマはある。あからさまにできていない。それは不可能性への挑戦なのだろうか?いや違う、そんなごたいそうなものではない。まだまだできることは目に見えてあるのだ。
けれど結局そこまでいくのかもしれない。そうなのかもしれない。それはひとつの作家としてのロマンになりえるはずだからだ。あっ、それってちょっと前に流行った馬鹿の壁?って思ったらそれでも構わない。
そして同時に、あらゆる経験や学習によって(本による勉強だけのことを言っているのではない。作品を作ることというのは学習でもあるのだ。作品を作ることによって、次の作品が生まれてくるということは誰しにもあることだろうし、人の作品をみることによって変わってくるということもあるだろう。)、そのテーマが少しずつ変わっていっている。僕のその大きな主題とはまるで生き物のように動き変化していくものだと思う。
しかし、自分はこの「私」というものがなんとも空虚なものであり、あやふやなものであるということもよくわかっている。それはたぶん生きるということも、死ぬということもどうも思っていたよりも、なんだかわからないものだからだ。当然だが、僕は初めて生きているし、初めて死ぬのだ。しかも生きていくということの現実(死ぬことを前提として生きる)を最近ようやく始めてばかりであり、それまでの生きるとは全く違うものであるという気が僕はしている。そこでの変化は僕にとっては大変大きいものである。けれども変わらない部分も確かにある。そのすべてが僕の主題だと思っている。
そして主題は常に僕とともに変化している。だから自分はまるで生き物を相手にしているような気がする。
作品を作るとき自分の主題とは関係なく、制作しているときに楽しみ、もしくはロジカルや仕組みを発見する楽しみが誰しにでもあるはずである。語ることに集中していたはずが、語ることについて語ることに集中していて、何を語るかということをおろそかにしてしまうことがある。大変なことに観客というのは、そのちょっとした違いに対して非常に敏感なものだと思う。
しかし、作家というのは作品について考える、作品を作るという喜びなしに、主題だけで成立するということはなかななかありえないのである。しかし、作家はその楽しみに溺れてしまわないようにずいぶんと警戒しているようだと思う。
けれど形式が主題を破壊して、私たちの知らなかったものを導き出すということが、美術では不可能になったということなのだろうか?間違いなくそれに対して否と答える人もいるだろう。
そして確かにゴンザレスとレスは、その主題という形式だけに制作の意味を限定したといえるかもしれない。そして彼はそういったセンスに非常に長けていたと言える。彼はそのための手段と言うのを非常に的確に見つけていた。
しかし、主題的な強さが作品の強さになっている作品も実は、フィリックス・ゴンザレス・トレス、ナン・ゴールディンなどを最後に、あれ以降それほど主題的な強さを持っている作家は見当たらない。
そうすると現在の作品の基準とはいったいなんであるのか?するとどうもイメージ、雰囲気というものが重要になってきたといえるかもしれない。
主題と形式が無意味になったわけではない。けれども、作品が持っている雰囲気や、イメージがある種の重要になってくる。すると、ある種のロマン主義、ドイツ表現主義、アールヌーボー、象徴主義的なものが復活してくるということをよりわかりやすくしてくれると思う。
それらは、個人が持っている雰囲気のボキャブラリーの基盤になっている。たとえ形式的なものを導入してもそれはほど良いのだ。
そこに新しい認識があるのか?少なくとも松井みどりさんは、そう批判していた。
さて、それが悪いか、悪くないか?そして自分はそういった状況から例外になっているのか?
例外といわなくても、その影響、同時代性は、間違いなく僕の作品からも色濃く見えるはずである。
しかし、その判断をするのはここではそよう。今もどこからかささやき声が聞こえてくる。わかった気になってしまう人は作品がだいたい弱いのだと。
統計的な問題はよくわからないが、僕はそれほど自分が才能のない人間だとは思わない。僕は今も、フォーマルな問題も主題の問題も真剣に考えることによって、ある壁を突き破って行きたいと思う。当たり前のことだけれど。ある本当の意味での限界を乗り越えられるか、という問題では大変難しい問題だが、美術界における実力競争社会で、僕はそう負け続けるとは考えていない。つまり、陳腐な競争、陳腐な現実にけして負けてはならないのだ。もっと大きい問題と戦い続けていかなければならないからこそ、この陳腐な戦いには絶対に勝つ必要があるのである。
思うに、企画画廊がつく、作品が売れる、成功すると言うことと、作家として物事を考えていくと言うことは僕は、どうも一緒の問題ではないという気がしてならない。もちろん運良くそれが一致する人たちも少なからずいると思う。そういった作家はそれは本当に運が良かったのだ。しかし、間違っても現実的な成功のためだけに作品がなってはならないと思う。それと同じく、作家として思う存分探求できる土壌を作るためには必ず現実的な成功しなければならない。どの程度が成功か?それは作家としてシビアに作りづづけていくことができる最低限でもの環境を作り出していけたら、僕はそれを成功だと考えている。
しかし、現実的に展覧会を成功するということと、作家として満足いくようにやれることを両方できなければならないのである。
もし、現在の現実で、現実的な成功と、作家としての意義が一緒になってしまうとしたら、あまりに淘汰されるものがここ日本においては、特に多いからである。
この多重性について考えるということは、ある意味世代的なものなのだろうか?
これは僕だけが感じていることかもしれないが、日本の現代美術における現実的な成功に見える現状と、作家としての魅力がここまでかけ離れてしまったことに対する反省と改革に向けてのマニフェストだと僕は考えている。
これは孤独な戦いとなるのだろうか?僕は孤立するだろうか?そうかもしれない。それが怖くないかと言えば、実は結構怖い。
ある人がいっていた。アメリカがイラクに攻撃を開始した時、アメリカにつくのが現実主義だという日本人が多かった。しかし、今になって振り返ってみれば、アメリカはこの戦争に勝てないかもしれないともらし、戦争の選択を大いに反省している。つまり戦争反対など理想主義だとののしられたが、あれは確かに現実に即し論理的に考えられた問題でもあったのだと。それはもちろん一部の人間だけだろうが。論理としての平和と言う本を出していた東大教授は、戦争開始時点から今を予測していた。
僕はそれを信じている。僕はけして理想主義で言っているわけではない。僕のマニフェストはもしかしたら本当の現実主義になりえるかもしれないと。