「家宝」とは、マノエル・ド・オリヴェイラ監督が2002年に撮った映画だ。
ストーリの説明はこの映画の公式ホームペイジを載せておくのでみてほしい。
http://www.alcine-terran.com/main/kahou.html
この映画は、貧しい育ちのカミーラが、「聖母マリア荘」を相続したアントニオの家に嫁ぐことから話は進んでいく。しかしカミーラは、アントニオを愛しているわけでもないし、アントニオもまたカミーラを愛してはいなかった。カミーラは、お金の面では何の不自由もなかったが、受難としての結婚として描かれることになる。
しかしカミーラはその受難を受け入れ、苦しい顔一つ見せず、ただ耐え続けている。周囲の人間は、その彼女に困惑し、恐怖し、また魅了されてもいる。
さてカミーラの受難は、彼女の中の不思議なほど信仰が基盤となっている。その姿は何人かの歴史上、宗教上の人物になぞられていく。その中でもっとも多く、そして強くなぞられるのがジャンヌダルクである。
もちろんそれは戦いの英雄としてのジャンヌではなく、裁判を受けた受難の人ジャンヌである。
少しジャンヌダルクについて説明しなければならない。ジャンヌダルクとは、1412年から、火あぶりの刑で処刑される1431年の間を生きたフランス人女性である。
1338年から1453年まで115年間続いたイギリスとフランスの間の戦争「百年戦争」において、彼女は大天使ミカエルの声を聞き、祖国のために戦いたいと国に志願する。
数千人の兵を預けられたジャンヌは、イギリス軍の砦をいくつも撃退し、イギリスからフランスの国土の大半を取り返すことになる。しかし、彼女は敵軍につかまってしまう。そして裁判にかけられる。
彼女の受難とはここから始まるのである。テオドール・カール・ドライヤー、ロベール・ブレッソンなどフランスの名監督たちが描いているのでぜひみてほしい。
ジャンヌは神の声を本当に聞いたのか?祖国では彼女は神がかりな英雄だが、イギリスにとってはジャンヌは魔女でしかない。しかも彼女は厄介なことに大天使ミカエルの啓示のもと戦いに出るのであり、同宗教のイギリスでは非常に厄介な問題である。裁判は一年に及び彼女はついに自分が神の声を聞いたということは誤りであったという書類にサインしている。
しかしジャンヌは結局火あぶりの刑に処せられてしまう。
ジャンヌがミカエルの声を聞き、戦争に向かっていき、ほぼ一年間に及ぶ裁判にも耐えた、彼女の信仰の大きさを僕は想像もすることができない。
さて、ジャンヌの壮絶な信仰を、カミーラとして現代に置き換えて壮絶な受難をこの「家宝」では描かれているかといえばそうではない。非常にあっさりと、かつかなり抽象的にこの「家宝」ではカミーラの受難を描いているといえる。
しかし、今日においてなぜジャンヌ的な信仰を引き合いに出し一つの受難を描いているのか?
そこには、オリヴェイラの今日的政治の状況に対する一つのやり方が見えてくるのだ。
この「家宝」で描かれるカミーラ、アントニオ、ヴァネッサ、ジョゼたちの自身または関係とは今のイラクである。
アントニオはでありイラク権力者(彼は、親の財産つまりイラクでは石油は持っているが、その財力をまったく生かすこともできず。ただ権力と快楽におぼれた生活をしている)、ヴァネッサは快楽に、ジョゼもまた低い身分出身であるが故、権力と快楽には順応してしまう。
そしてジョゼが最後に近いシーンで警察から釈放されるときの映像は異様でぞろぞろと人がでてくる。それはまるで捕虜が解放されるような、戦場から戻ってきた兵士のようである。つまり、明らかにジョゼはイラク兵に置き換えることができる。
そうなるとカミーラとは戦争に参加せず、たえず攻撃を受けるイスラム教徒たちとして考えることができるのだ。
それはなぜか?快楽と権力、それに対抗するものとしての信仰。ジャンヌの受難とはまさにその信仰の弾圧であり、アメリカの介入は、ある意味でその弾圧と同じことをイスラム教徒たちに加えているのである。イギリス人にとってジャンヌは完全な他者であり、僕たちにとってはイスラム教徒は完全なるたちゃである。他者の信仰をどのように受け止めるか?問題はそこになってきているのだ。
イギリス人がジャンヌを弾圧したとおり、信仰とは目に見えないものであり、その人の中で起こっていることである。それを弾圧しようとする力は、一つの権力と快楽に従属する力である。
これは本当に小さい人間の中で行われている物語だが、実は国家単位になったとき、その力は戦争を作り出してしまう。ここで問題となるのは、僕たちは国家としてのアメリカ、ジャンヌを裁いた者たちと同じことをしているもしくは共犯関係にあるのかもしれないということである。
いや世界中でこれほど宗教、民族同士の戦争は、他者の信仰を弾圧するところにある。同じ宗教であっても、信仰は弾圧しえるのだ。
この映画のすばらしいところはカミーラの魅力である。僕が忘れられないシーンは、カミーラが最悪な状況の渦中の中での笑いと(これはジャンヌが裁判中に笑い出したこととの対比として置かれている)、最後のシーンで弁護士がカミーラに対して「あなたにいろいろとお聞きした。個人的な関心であなたにいろいろと聞きたいことがある」ったときのカミーラの笑みである。
この表情の意味の違いはとても重要であり、彼女の笑いは、弁護士が職務を忘れ、個人的にその人に関心を持つこと。その素朴さを彼女は受け入れ微笑む。その笑みに魅了されること。その可能性とは、単純に世界の可能性である。その表情に魅了されること。それは、略奪や弾圧後力ではなく、関心を持つということである。他者の信仰に関心を持つこと。他者の信仰に魅了されること。それは全体とは必ずズレを引き起こすからである。それは宗教、国家、民族という全体の名、全体の輪郭をまず打ち壊せるものである。
この可能性は、すべての人たちに関係する可能性である。