今回のコラムは、ケネス・クラークの「絵画の見方」のように、一人の作家の一枚の作品について語るという初めての試みを行ってみようと思う。
そしてその作品をジェフ・ウォールの「Tattoos and Shadows」にしてみようと思う。
ここで作品が見れます
http://www.hasselbladfoundation.org/wall_samples.html
タイトルが、「Tattoos and Shadows」であるとおり、この写真は木々が生い茂った庭(木洩れ日の中で)で、三人の人物(両端の二人の人間は腕などに刺青を入れている)が、昼の時間をゆっくりとすごしている情景になっている。
それぞれの人間の状況を詳しく観てみることにしよう。
左に座っている女は、赤毛で中年の白人である。ポーズは,横においてある椅子に座ることなく明らかにマネの「草上の昼食」の中の裸の女のポーズを意識させる。
目線は下に向けられ、深刻ではないにせよ、何か悲壮感を感じさせる表情になっている。彼女は半分あきらめかけているが、いまだ何かを考えているように見える。
しかしここでは、もしかしたら猥褻な想像をめぐらしているようにも見えるのだ。それは濡れたような髪の毛と、ワンピースと、憂いに帯びた表情が観る観る者にそれを誘発させるのである。
真ん中に寝そべっている女は、ゴーギャンの絵に出てくるタヒチの女性を想起させるような浅黒い肌の若い女である。左手で頬杖をつき、右手はまたの間に挟まれている。
まなざしは強く、若さと意志の強さが表現されている。自分の未来について考えているように思える。また、股に手がはさまれていることから、自分の貞操を守ろうとしているようにも、マスターベーションを想起させるようにもみえるようになっている。
右側の男は中年の白人でひげを生やし、読書にふけっている。それは外部と切断して現実を忘れようとしているようにも見える。しかし、本の材質からしても雑誌かなにかなのではないのではないだろうか。
また、ほかの二人には背を向け、あぐらと体育座りの中間みたいなかたちである。これは彼が、女性に背を見せ本を読んでいることから女性を拒絶しているようにも見える。また足にマニュキュアを塗っているとわかったときにわかに彼はゲイかも知れないという想像力がわく。
両端の二人は、刺青、赤毛、もしくは髭、中年、中肉中背、服装とどう考えても社会的には余り高くない、もしくは疎外されやすい身分や性質の人間であることが印象付けられる。しかし真ん中の女は、いまだそれに立ち向かおうという強い意志を持っている。しかし、同じ空間の中で三人が、バラバラな方向を見て、それぞれに没入している状況とある種のエロティックな状況を示唆させるやり方は、マネの形式をすぐに想起する。
しかし同時に、この若さと老いの問題で言えば、ゴーギャンの「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処に行くのか」の形式がジェフウォールなりにアレンジされているいえる。そう考えると、ここで男のポーズは「われわれは〜」の一番左の耳をふさいで座っている老婆に当たるのではないか。
次に写真の視覚的なところでの形式を見てみる。
この写真は、木洩れ日の中のポートレイトは印象派をすぐに想起するわけだが、ジェフ・ウォールはスティーブン・ショアー(写真家)の「The gardens atgiverny:view of mone't world」の形式性から発想も得ているはずである。
ショアーのその写真集では、モネの絵と似たような庭の状況が撮られている。しかしそこでは、モネとは全くことなる展開がなされている。
その写真は、プリントや撮影の技術でよって、遠景、中景、近景にピントなどの差異をつけることなく映し出し、影などを操作することによって画面全体が均質に見みせる形式が採用されている。そういった技法を用いることによって、写真が持っている優れたディティールの描写力が写真の空間を見づらくさせるということが際立ちを見せている。
これは、クールベが、対象の物質性に執着することによって、絵画空間が壊れているのと同じようなことが、写真独自の性質を使うことによって起こっているのだ。
ジェフウォールの場合、体の刺青がある種の社会的な猥褻さを表象するのと同時に、刺青が木洩れ日との関係性で人物を分離させないようにまるで迷彩のごとく用いられていると考えることができる。
しかし、ショアーのそれとウォールのそれとでは異なる部分がある。
それは、ウォールのこの作品の場合、上の木の葉っぱと下に落ちている影が対応関係となって作り出される空間をもんだいにしているからである。
よく観れば、木々から作り出されるであろう木洩れ日は、写真の中で起こっている木洩れ日のようにはならないはずである。しかし、そこをうまくCGで操作することによって、地面と空中の(まるでティントレット宗教画のような)空間の歪みが作り出されているのである。木々の葉っぱは非常にフラットに見えるのに対して、地面は木洩れ日によって空間が強く示されると言うわけだ。
さて、視覚的な空間な歪みが描き出されていることは説明したが、また同時に意味的な空間を観ていくことにしよう。
それは、木々の後ろにある塀(これでここが庭であるがわかる)と、さらにその後ろに部分的に見える家が、映し出されている。
そこから当然わかることは、彼らは庭の隅にいる。なぜ彼らは庭の隅にいるのか?
そして彼らは明らかに家族ではない。となると一番妥当なのは彼らは、この家に雇われた清掃員などの労働者であり、その昼休みのひと時として見ることもできる。だから中年の女は横においてある椅子に座らずにいるのだ。
ここでさっきの人物の内容と関連づけるとひとつのことがわかってくる。それは労働者階級の人物たち(ある意味で社会的な疎外を感じている人間たち)の状況を映し出していることがわかる。
そして隣の家が写っているのは、実は地域的なもので階級の住み分けがなされていることを暗示していることになる。なぜならこの家はおそらく庭の向こう側に写っている家と同じような家であるはずだからである。それはここの地域に住んでいる人々の階級が表されていることになるのだ。
そしてもちろんこれがドキュメンタリー写真としてではなく、フィクションの中から立ち上がっているのだ。
ジェフ・ウォールの面白いところは、彼が作品でやろうとしているところが何であるのかが一つのもとのとしては語れないところである。彼は写真という一つのメディアを用いながら、さまざまなレベルでのコンテクストや形式、意味が張り巡らされている。このようなやり方を画期的に用いた第一人者の一人であるジェフ・ウォールは、以降マシュー・バーニーやリアム・ギリックなどの作家のさきがけとなっているといえるだろう。