島さんが書かれたコラムから早くも半年の月日が経っていて。はずかしながら昨日、「kill bill」と「座頭市」を見た。感想としては二つとも面白かった。二つとも非−今日的ハリウッド=グローバリゼーション的アクション映画というものを作り出すことに成功していたように思える。
良くも悪くも、タランティーノは非常に日本映画的な「出鱈目さ」をうまく周到しているように思えた。なかなかあの「出鱈目さ」はアメリカ人には作れないのではないだろうか。にもかかわらずこの映画には、雑さがそんなにない。それがこの映画をよく見せていた。
「座頭市」もまた、アメリカともヨーロッパからもはずれるアクション映画=日本、というネガティブな形ではあるが、それがわかりやすく見えた映画だった。
島さんが言うとおり、音楽やダンスとさまざま要素を用いながら二つの映画とも独特のリズムを作り出している。
もちろん、この二つの作品を対比させて何かを論じることは、難しくはないだろうがそれほど魅力をおぼえない。そんでもって、二つの作品の技術的な面は、島さんが明快に示してくれたとおりのように思えるのであえて書き足す必要はないだろう。
「座頭市」について。わかりやすぎるくらいの世界的現状の図式がなされていたように思える。いやしかし、この映画の物語は次の一点を除いては本当にオーソドックスな時代劇の物語である。
その一点とは、ここで描き出される暴力は、悪を見せるためでも、正義を見せるためでもなく、ただ被害者の被害者性を強めるためだけに描かれている。悲哀のためのアクション。
この映画では、悪者は必要最小限しか人を殺しを描かない。ここでの大量殺戮は、被害者たちによってなされるのだ。
そして、民衆は思考を持たない、機械的なもしくは単なるエネルギーとして描かれている。そこでは内面は描かれないのである。これは武映画のスタイルで、下の人間は、馬鹿か、内面などない者として描かれる。
いやもしかしたらこの作品の登場人物は誰も内面など描かれることなく、問題は悲哀を帯びているか、いないかのどちらかでしかないのかも。
最後のダンスの高揚感には、不気味なほど空っぽさに包まれていた。そのダンスがダンス以外の何かを再現しなく、ほとんど物語と関係しない。誰でもピカソのパフォーマンスのように、唐突に行われる。あれはいったい何を意味するのか?
世界という豊かだった湖は、知らない間にずいぶんと干上がり、どんどんと「浅」いものになってきている。がしかし、それを原因とした弊害はどんどんと「深」刻な問題となっている。
それは、資源の問題や経済の問題、人口の増加、森林破壊という直接的な問題が、原因になっているのも間違いない。
昨日イラクで拉致されていた今井さん、郡山さんの会見を聞いている限りでは、彼らの言っていることはまったく正しい。これは、単純に一人一人の人間の話を聞いて思ったことである。同時に、彼らが言ったようには現実が動かなかったこともよく理解できる。
今、僕らの意識も問いたださねばならないのだろう。
倫理的にではなく、どうすれば戦争に参加しないですむのか、という問題についてもう少し知ろうとする必要があるし、考える必要がある。これは、当たり前すぎることだけど。
また、メディアも政治家も、もっとどうすればそうならないでようにできるのかを説明すべきなのではないか。倫理の問題でもなく、利潤の問題だけではなく。本当は政治家も意志を持つべきではないのか。単に経済的な安全のことだけでは、やっぱり解決できないことが多すぎるのではないか?
単なる倫理観などすぐに吹っ飛ぶ、しかし意志を持たなければすぐに道を誤ってしまう。つまり、今回の拉致された三人を非難してしまうという過ち。
現実では、正しい意志を押しつぶしまくって何とか成立しているといえる。
僕たちは、派兵に賛成か反対かちゃんと決めそれについての意見をもっと考えるべきなのだろう。
答えを出すのではなく、自己肯定するのではなく。どうしたらよいのか、どうしたら免れることができるか、ということを。そこからまず考えてみるべきかもしれない。メディアや政治家がもっとそれを促す、教育すべきである。
どちらが正しいかわからない、だからどちらか側には立てないのではなく、どちらかにたって世界について考えるべきなのかもしれない。
今は「意志」と「手段」についてもっと知るべきなのではないか。
僕たちにできること、その手段はどんなに小さなことでも構わないはずで。戦争に関係する必要もない。
意志を持つこと。
何かが変わるということについて考えてみること。
その手段について考えてみること。
それは、どんなことでも構わないはずだ。
そういった意味で、僕は島袋道浩の作品を擁護したいと思うのだがその話はまた今度。