また書き慣れるまでに時間が少しかかるけれど、少しずつコラムを書いていこうと思います。
今回は、マノエル・デ・オリヴェイラの「家路」(2002・フランス/ポルトガル)について書いてみようと思う。
マノエル・デ・オリヴェイラは、ポルトガルの映画監督で、すでに90歳をこえながらも今も現役で映画を作っている。俳優にはミシェル・ピコリ、カトリーヌ・ドヌーブ、ジョンマルコビッチなどがさりげないけれど存在感をある演技を示してくれていた。
オリヴェイラの映画はいくつかの映画しか見たことがない。彼の監督としての全貌を知っているとは言えないが、それでもこの監督がとても魅力的で不思議な映画を作り続けているというのは間違いないと思う。
この作品は、舞台や映画で活躍するベテラン俳優が、ある日突然妻と娘夫婦を事故で失うというところから始まる。
俳優は、孫と二人暮しを続けながらも、変わることなく俳優としての生活を静かに過ごしている。しかし、静かな生活の中にもやはり老いやちょっとした出来事の積み重ねによって、仕事と歩調を合わせるということに、だんだんと疲れを覚えてくる。
そして、「ユリシーズ」の映画の撮影に参加することになるのだが、急な依頼もあって、セリフを覚えるということに執着し続けながらも、最後には撮影現場を途中で抜け出してしまう。
これは、今まで仕事にポリシーを持ってやっていたベテラン俳優が、仕事と自分の間のずれを埋め合わせきれなくなるということを示している。
これは思うに現在の社会的な時間の進みの早さ、それに振り回されながら作品を作るということ、に対するひとつの告白のように思えた。
現在作品を作るということとは、どういうことなのか。
映画であれ美術であれ、作品の消費のされ方はどんどんと早くなっている。それとは反比例して作品を作るということによる理想はどんどん少なくなってきている。
成功主義的な現実に少なからず振り回されていて、その背景には何もないというのが皮肉に観てしまえば、そういいきれる現実がある。
それと関係してここ何年か、世界的に芸術は妄想の時代になってきているような気がする。作品が夢としての消費物になりきっている。過剰な妄想が、映画や小説、また絵画の中を支配するようになってきた。
逆に現実を深く見つめるということは、どんどんと少なくなってきたように思える。
ことサブカルの作品においては、妄想の研究は進むが、現実の視点に対する関心は忘却されつつあるのでないか。
最近の映画のなかに、「現実の中の美」というものが見出せなくなりつつある。
僕たちはいつからか現実の光よりも、電気の光の方に、関心もしくはフェティシズム、が向けられている。
アニメの光はそれをよく体現じているが、CGなどの導入によって映画もアニメの光の感じ方と変わらないものになってきた。
それ自体が悪いわけではない。しかし作品が自然とは分離された形で成立するというのがずいぶんと可能になってきたのかもしれない。
僕はここ半年ほど積極的には新しい映画を観ることをしていなかった。むしろ70年代以前の映画をよく観ていたといっていい。
これは懐古主義的な言い方になってしまうが、そのころのすばらしい映画とは、とびきり天気のいい日に、外で散歩するか家の中をうろうろするのと同じような感覚があるのである。つまり映画の大きな要素として僕は記録された実際の光、風景に魅了されていたといたも過言ではないのだ。
つまりスタジオの光であろうとロケであろうと光は、物語ともに記録されていたのだ。
このような言い方に、今日的にはつまらなさを覚える人が多いのもよくわかるのだけれど。
現在の映画において、光もまた妄想としていくらでも加工できるようになっている。
まったくリアリティーを持たない光。それは深夜のアニメ番組を想像してもらえることができると思うが。
今日において作品を作るということはどういうことか。
特に映画などは社会や時代の要請を無視して作品を作ることができない。
作品を作ることが、社会の要請に応えるように作品の歩調を社会に合わせていくことではない。
現在性と言う言葉に対して、作家は個々に考える必要がある。無視すると言う事ではけしてないけれど。特にそれが流行やモードだけに合わせていくということであれば。
監督や作家の思想が時代にアプローチするのであって、作家の思想が社会や流行に強制的になし崩しにする、まるで波際に砂の城を建てるようなものであるというのは、本末転倒な感じを受けていしまう。
この作品でオリヴェイラは、劇中劇や画中画の形式を断片的に何度も組み込んでいる。これは、芸術が自然の中にあるのであって、その逆ではないことを示しながら、芸術のあり方を示している。絵画と彫刻、それと靴、劇、カフェなどを特権化することなく俳優の日常の中に存在する。これは、作品というもののあり方のひとつの提示である。
二、三十年ほど前からオリジナルなきコピーとはよくはやしたてられているが、そうだからといって、妄想だけの芸術に素直に楽しめ続けることができないと言う者は少数派かもしれない。が僕には確かな問題である。