最近,友人から広告デザインのカタログ集を見せてもらいました。彼は,そのカタログ集のなかのある広告を記号学的にどう読み解くことが出来るかということを熱心に語ってくれたのですが,その読み解き方があまりにも鮮やかだったので,そのことを書こうと思います。
お題となったページには,晴れ渡る空の下に美しく穏やかな海が広がっている,楽園ムードたっぷりの写真が広告の全面を占めています。(イメージを言葉で説明するのは難しいので,快晴のきれいな海を想像してみてください。)意外なことにその写真の中央には手書き風のフォントで"Bad Day"と小さく書かれてあります。何故か快晴の楽園に矛盾するような"Bad Day"という言葉が書いてあるのです。何故でしょうか?実は,この広告は大多数の人にはなんで?と首を傾げたくなりますが,ある人たちにとっては瞬時に理解できる広告なのです。
その“ある人たち”というのは誰を指すのでしょうか?答えを先に言ってしまうと,それはサーファーです。晴れて静かな海ではサーフィンは出来ません。サーファーにとっては間違いなく超がつくほど"Bad Day"なのです。これはアメリカのサーフブランドの広告なのでが,(上では書きませんでしたが広告の右下に小さくブランドのロゴマークがあります。一応誰にでもわかるようにという配慮だと思われます。)快晴の静かな海というコンテクストから"Bad Day"というテクストを瞬時に導き出せるのは,恐らくはサーファーだけでしょうから,サーファーにターゲットを絞った広告といえます。
私達は例えば「朝」という言葉が「夜が明けて明るくなった時のこと」という意味を指し示すことを知っています。しかし,「朝」が「夜が明けて明るくなった時」を意味する必然性はなく,言葉と意味の関係はただそうなってしまったという恣意的ものなのです。だから言葉は変化するわけで,もし,言葉とその意味の関係が必然であるなら言葉は変化する必要はなく,昔と今で同じ日本語を話しているはずです。古典という科目もなくなるでしょう。つまり,ある特定の時代のある地域や集団で共有している言葉の概念を知ってるからその意味を理解しているのです。そして,その関係には確固たる必然があるわけではなく経験や主観で変化するのです。例えば「病院」が直接に「怪我人や病人を治療や看護するために収容する場所」を意味するのですが,人によっては親の「死」であったり病気により「会社や学校を休めるところ」であったりと元の意味から変化した意味も含んでしまうことからも言葉と意味の関係は恣意的であるといえます。多少脱線しますが日本人である知識人も高校生もサーファーも同じ日本語を使うのに,知識人は知識人的な,高校生は高校生的なサーファーはサーファー的なそれぞれ異なる喋り方をするのはそのためともいえます。それぞれの集団のなかの経験により集団特有の言い回しが存在します。
少々混乱気味になってきました。話を元に戻し整頓すると,サーフィンの経験もなくサーファーでない人にとって,晴れた静かな海は大半の人の場合良いイメージを喚起し"Good Day"を意味するのですが,サーファー特有の記号言語の中では"Bad Day"に変わってしまうということに,記号学(言語学も)が密接に関与しているということがいえます。サーファーしか解り得ないということ,空と海のみの構図(サーフィンの視点),ゴシック体ではなく手書き風のフォントを使用することからサーファーの特別意識や趣味嗜好を刺激させて,広告として強度を獲得しているのです。
アメリカでは,日本と比べて,このような構造のしっかりした広告が多いような気がします。恐らく人口のほとんどが日本人である日本では,構造がしっかりしてなくてもイメージを共有できるのでしょうが,アメリカは多民族国家であるが故,言葉をほとんど使わなくても見た瞬間理解させ記号から意味を喚起させるしっかりとした構造が重要なのでしょう。そして記号学的に読み解ける広告が多いのもそのためであるといえるでしょう。
このサーフブランドの広告を見たとき一人の作家を思い浮かべました。エドワード・ルッシェです。アートと広告で性格の違いがあるので当然同列に語れないのですが,ルッシェも記号学的な手段を熟知していることは容易に想像できます。今の段階でルッシェについて語ることは出来ませんが,発見があったらこの続きを書くことにします。
アートで締めようと思ったらオチのない結末に・・・。
うーん,回りくどい説明,また説明不足や強引な点はご了承ください。以後精進します。