自由を考える/9・11以降の現代思想」(NHKBOOKS)という東浩紀と大澤真幸の対談集、について書いてみようと思います。
この対談集は、「権力はどこへ向かうのか」、「身体になにが起きたのか」、「社会はなにを失ったのか」というタイトルで三つの対談が収められています。
今回は、「権力はどこへ向かうのか」と題されている対談の内容をまとめながら、紹介していこうと思います。
この対談の出だしは、大澤氏と東氏の思想における関係の紹介から始まります。
大澤真幸は、オウム真理教について書いた、「虚構の時代の果て」という本があります。そこでは大澤氏が名づけた「虚構の時代」というものが、事実的にも、論理的にも限界に達したということが書かれていました。
その限界の先にはなにが現れるのか、どのような社会が現れるのか、といった時に、東氏の「動物化するポストモダン」という本の中で、「虚構の時代」のあとの「動物の時代」、が提唱されていました。そこで、大澤氏は自分の考えている思想との連なりを見る事ができたようです。
東氏もまた、大澤氏の理論に影響を受け、その上で「動物の時代」という理論を組み立てています。
大澤氏の「理想の時代」から、「虚構の時代」、そして東氏のいう「動物の時代」というのはどういうものなのか。現在はどのような徴候が現れ、それはなにを意味しているのか、この本では、それを検証していく形で話されていきます。
ここで、東氏は現在の世界で、はっきりしてきた二層構造について説明します。
その二層構造を一気に押し進めたとする9・11テロについて言及されます。
まず一つめとして、9・11テロは、よく映画のようだと言われています。また、大塚英志の「多重人格探偵サイコ」でも、9・11テロとほぼ同時期に、飛行機を乗っ取って大型船に突っ込む自爆テロ、のストーリーが描かれていました。
これは、この10年で最大の世界史的事件の一つが、10代向けのメディアミックス企画に先取りされてしまう世界が到達したということであり、この世界の「浅さ」を意味しています。
世界は、ボートリヤールのいうところの完全に「シュミラークル」になってしまっています。
もう一つは、「セキュリティ化」。イデオロギーや理念では、押さえる事のできない暴力を、情報管理の徹底によってシステム的に押さえ込もうという傾向です。
この二層構造を東氏は、「シュミラークルの層」(消費社会論→「動物化するポストモダン」)と、「データーベースの層」(権力論→「情報自由論」)と二本立てにして、考えていこうとしています。
では、イデオロギーや理念が暴力を押さえることができなくなってきたこと、はどういうことなのでしょうか?
世界や人生を全体として位置付けるイデオロギーや理念の喪失している、それは人々を動員し命令、つまり権力に実効性を与えるもの(大澤氏は「第三の審級」、東氏は「大きな物語」、ラカンふうに言えば「大文字の他者」)、の効力が弱まってきている事を意味している、と二人は語ります。
しかし、世界はこの「第三の審級」、ある意味で世界に秩序を与えるもの(「規律訓練型権力」)がだらだらとを弱くなっていく中で、20世紀の百年間をかけて新しいタイプの秩序維持の方法が築き上げられてきました。その新しいタイプが「環境管理型権力」です。
「環境管理型権力」とはどうようなものなのか、ここでは例として、ジョージ・リッツァという社会学者の「マルドナルド化する社会」のなかのマクドナルドのイスの硬さをあげています。マクドナルドのイスは硬く作られている。イスが硬ければ、長い間そこに座っていられないわけで、客は何となく去っていく。これによって消費者の回転を目論んでいるわけです。まさに、この操作が「環境管理型権力」であると定義しています。
では、このような考え方は、どのようにして出てきたのでしょうか。それは、近代という時代がどのような時代だったかを説明せねばなりません。
近代的な権力の特徴は、死でなく、生を管理する事にありました。前近代の王政では、人を恣意的に殺す事ができる能力、つまり、人が健康に生きているかはさして重要ではなかったのです。
そこで、19世紀の後半あたりから強力になっていく「福祉国家」的体制「生権力」ができています。この「生権力」が現在の「管理型権力」にあたります。
「環境管理型権力」をもう少し詳しく説明するためにいくつかの例をあげています。
ローレンス・レッシングは「コード」(翔泳社)で、人を動かすパワーには4種類あると述べています。
1つめは法、2つめは法にはならないけれど規範のようなもの、3つめは市場、つまり経済的な利害によって人は動くということ。4つめはアーキテクチャー、つまり環境を人を動かすように作りかえてしまうこと。
権力とはもともと伝統的には法がベースになっているにたいして、それがアーキテクチャーに基盤が移行してきているのではないか。
ここで大澤氏は、カフカの「掟の門」を例にして考えています。
東氏は、環境管理型の権力をもう少し広げて説明するために、スターリン主義のソ連について書いています。
当時のソ連では、市民が逮捕されることに殆ど意味がなかったようです。あらかじめ、その地域で何人逮捕するかは決まっていて、その数によって市民は逮捕されることになっている。
つまり逮捕されたか、されなかったか、何年の刑を喰らうかは確率の問題でしかったのです。これは、捕まった理由を絶対に内面化することができないことを意味しています。(ここが、「掟の門」とつながる所だというのが大澤氏の意見です)
また東氏は、酒鬼薔薇聖斗と宅間守の事件をあげています。彼らからは犯罪を犯したことに対する納得のいく動機えられない→事件が物語化できない。
しかし、いかなる社会でも一定数の犯罪は必ずある。それを封じるためにセキュリティの装置が作られるということになっています。
ここで、では現在における自由とは何かということが出てきています。「環境管理型権力」の台頭が、自由という考え方を無効にしつつあります。一方ではとても自由かのように感じることのできる社会と、もう一方ではコマンドが用意され、意識せず人々はコマンドに従って生活することが当たり前になりつつあるのです。意識化されないという所からも、この問題が自由か、不自由かという問題ではなくなってきています。
また、この環境管理型権力には、メリットの部分がとても大きい。つまり、こうなったのにはある種の強い正統性を持っているといいます。
環境管理型権力は、誰もが安全であって欲しいというリアリズムから強化されてきていると考えることができます。
この「環境管理型権力」に対抗するために、今は「犯罪を犯す自由」としか言えない、と二人は言います。
FBIの「カーニボー」(メール傍受システム)、住基ネット、国民総背番号などの、様々な徴候が現れていても、専門技術に過度に依存した現代社会では、専門家以外には何の判断材料も持てないで、透明で公正な議論は幻層にすぎなくなっています。
ここで、二人がそこに対応する概念として「匿名性」(東氏)もしくは、「偶有性(これは、自分が他の人になりえる可能性の事を示しています)」(大澤氏)というものがあるのではないかと言います。
ハンナ・アーレントという哲学者は、「人間の条件」という本を書いています。アーレントは、公共的なコミュニケーションを重視しています。その公共性の決定的な条件として「現れ」というものをあげています。現れとは、人が他者に対して、「何」としてではなく、固有名を持ったかけがえのない「誰」として現れることを意味しています。
しかし、現在において、これが反転してしまっているかも知れないと大澤氏は考えています。
携帯電話やネットは、匿名性が高いようで非常に匿名性が排除されたメディアだと二人はいいます。我々は、生活の全ての場面で自分の正体が明かになってしまう状態になっています。それは、もちろんクレジットカードや携帯電話等のさまざま消費社会のサービスの充実と治安維持におけるプラスの効果を持っています。
しかし、その中も、現在匿名性の重要性を唱うことは、重要なのではないか。
この本では、他の2つの対談によっても、その「匿名性」、「偶有性」などから、新しい自由の考え方、概念についての考察がなされています。