いやはや、お恥ずかしい。ちゃんと読み返さなければと思いつつ、読み返したりもしているんですが、誤字が減らない。
さて、今日は、私が昨日観たビデオの話です。
「インディアン・ソング」という映画。
この映画の監督、脚本、原作を手掛けるマルグリット・デュラスは、非常に優れたフランスの小説家でもあります。そしてこの映画は、小説の性質を映画のシステムに置き換えることによって、革新的な映画をつくり出していると言えます。
この映画の中では、音は完全にオフレコになっています。そして、映画の中に登場してくる俳優達は一回も口を動かさないようになっています。
さらに音はまるで字幕のように、声の大きさがほぼ均質で(途中で聞こえる叫び声だけが過剰に強調される)空間化されにくく、すべての音がフラットに聞こえてきます。けれど、声の内容は非常に空間を意識させる会話が多くあります。(この物語の場所は、インドにあるフランス大使館です)
つまりこの映画は誰が、どこで、何時話している声なのかが非常に曖昧なものとなっています。
また、この映画では何度も音楽が流れるのですが、それが映画の中の登場人物達に聞こえている音楽なのか、それとも観ている私達だけに聞こえている音楽なのかは、場合によって違うように設定されています。
音楽がなりはじめる、すると人形のような演出を強いられている俳優達がゆっくりと踊りだすことによって、それが彼等にも聞こえている音楽だと、観ている人間に知らされる。
けれど、また別の場面では、この状況で実際的に音楽が流れているということは、考えにくい設定で音楽が流れたりする。
これは、いくつかの段落によって、その声、音楽と映像のからみかたが微妙に変わっていることが分かります。
この映画の中では、時間と空間、この映画を物語っている人称が、人形のように無表情でぎこちない演技をしている俳優達や、何度も反復して映し出される映像、接続されたり、分断されたりすることから、異様な浮遊感をかもちだすことにこの映画は成功しています。それを非常に分かりやすく示しているのは、部屋の中にある大きな鏡といえるかも知れません。
かなり厳密に設定されているこの映画は、形式的なものに興味がわいてしまう人、映画と小説に興味がある人、けだるい映画大好きな人は必見かも知れません。けれど、きつい人にはきついと言えるでしょうし、眠くない時に観たほうがいいような気がする映画です。