昨日は、ギャラリーなつかで友人がやっている展覧会を見に行くついでにいくつかのギャラリーをまわりました。ハヤカワ・マサタカギャラリー、小山登美夫ギャラリー、シューゴアーツ、タカ・イシイギャラリー、ギャラリー小柳、資生堂ギャラリー、タキ・ゲンジギャラリー、ワコウ・アート・オブ・ワークスなどの展覧会を見てきました。
この日の展覧会めぐりは、写真を使った作品が多かったのが印象にあります。
小山登美夫ギャラリーでやっていた塚田守氏の展示は、写真によって構成されていた展示でした。
しかし、写真的な写真というよりも非常に映画を意識された作品でした。映画を作る(撮影する)という事をライトモチーフとして作品化されています。その問題意識は、ストローブ・ユイレ、テオ・アンゲロプロス、ヴィム・ベンダース、青山真治等の映画監督たちが扱っていた問題と重なる所がありました。
この手の作品は僕にとって、嫌いではないものの、写真でやる必要性がどこにあるのか?と思わなくもありませんでした。
また、作品のコンセプトとして、見えるものと見えないものの対立ではなく、見えるものの中に不可視なものが含まれている状態(塚田氏の言葉)という内容は、まさに青山真治が言っている問題でもあるのです。
このコンセプトの内容の実際的な方法論として、フレーミングというのが一つとしてあげられていました。
通常映画のカメラのフレーミングは、物語にリアリティーを与える為に考えられる。しかし、塚田氏の場合、フレーミングが演技をしているものと、それを撮影しているものを一緒に写(映)す事によって、これがフィクションなのか、それともフィクションを撮影したドキュメンタリーなのか、宙づりにしたかったようです。ですが、それが、映画のような運動や、声などが排除され、停止した写真になってしまった時、非常に図式的なものに見えてしまう印象を受けました。
見えるものの中に不可視なものが含まれているというがコンセプトからいくと、それを写真というメディアにおいて、徹底的に考えていこうとしているのは、ワコウ・アート・オブ.ワークス
で展示されていたクリストファー・ウィリアムズと言えるでしょう。彼は写真を中心に作品を作っているアメリカの作家ですが、彼の作品は、写真が何かを記録する、記録しない。写真に映っているものの中には、見えないものがあるという問題をずっと考えている作家です。
例えば、カラーコンタクトをしている二人の女性の姿が写し出されている写真。これは彼女達の本当の目の色は、僕達にはわかりえない。
また、今回展示されている虫が仰向けになっている写真があります。いかにも虫の屍骸を撮ったようにしか見えません。
ですが、テキストを読んでみると、実をいうとその虫は、死んではなく、死に真似をしている、まさにその状況を撮られた写真である事がわかるのです。
展示されていたもう一つの作品で、食器を撮っている写真があるあります。その写真ではオレンジ色の綺麗な食器が目を引くように撮られています。が、その綺麗なオレンジ色の食器は、本当は黄色の食器であり、特別な印画紙を使うことによって、黄色がオレンジに変色してプリントされてしまう。
今、あげたクリストファー・ウィリアムズの作品は、彼の作品の中でも非常にわかりやすい、もしくは単純な仕組みの作品ほうに分類され、彼の作品は徹底して何を撮っているのか、ここには何が写(映)しだされているのかわからないようになっているものがあります。
しかし、ここまで完全犯罪をしてしまうと見る人は、それに全く気付かない、もしくは見る人に無力感(そんなこと言われてもなぁ、みたいな)しか感じさせることができないかも知れな
い。
けれど、他の仕事も合わせて見てみると、不毛でしかないその方向性を、地道にかつ正確に構築し続けている彼の姿勢には、心打たれるものが僕にはあるような気がギリギリしています。