言わずと知れたドラクロワの傑作《サルダナパロスの死》。この作品は虐殺を描いたいわゆるロマン派的な作品だ。僕はロマン派=劇的ということぐらいしか考えたことがなかったものだがら、この作品について考えることは今まであまりなかった。もちろんボードレールなんかが賞賛しているわけだからすごいところがあるんだろうと思って、昔古本屋で画集も買ってみたけれど、いまいち入り込めなかったのが正直なところだ。まあその画集自体ひどく安いものだったせいもあるのだけれど。
ただもちろんこの作品が、色彩、ポーズ、明暗はばっちり決まっているし、また地面がどうなっているかわからず、画面の対角線上にバーミリオン系の色彩と明暗によって画面の大きな構成がされているのに、その空間はきわめて歪んだ不安定なものを作り出しているような、それはこの状況がまるで悪夢的な現実感のないものと結びついているような漠然とした印象を抱いてはいた。そういえばセザンヌの静物画でこの作品に着想を得ている作品があるだろうな、たぶん。けど、とにかくこの作品についてあまり深く考えたことがなかった。
ただある日ある文章で、この作品が目の前で殺戮が行われかつ自分が殺されようとしているのに、王はすべての状況に対してまったくの無関心であるということが書いてあって、それを言われて絵を見てみると確かにそうかとひどく納得させられたものだから、ドラクロワの他の作品を見てみるとその言葉をきっかけにしてさまざまなものが見えてきた。
それはどういうことかと言うと、様々な状況に対しての人、もしくは動物の様々な反応の仕方、感じ方を表すポーズに対してドラクロアというのは非常に的確に多くの種類のものを描きわけていることがよくわかったということなのだけれど、それはいわゆる主題や物語ということではなくて、ボードレールが言っていることだけれど、「ロマン主義とは、主題の選択でも確かな真実でもなく、感じ方の中にある」というそれのように思えたのだ。この言葉を僕はある種抽象表現主義などに繋がっていく色彩や形体など形式の問題だと思っていたけれど、ドラクロアの場合どうもそれだけではなくて、またドラクロワの絵画が単に虐殺とか戦争を描いているというわけでもなくて、そこにうまれている様々な感情が内包されているより複雑なものに見えてきたというわけだ。
しかし、この王の無関心さは強く心に残っていて。そして、ボードレールの詩なんかを読むと、虚無や無気力さに対する憎悪と同時に、絶望感と、自己喪失みたいなものに対する並々ならぬ感情があるように思えて、もちろんそこにナルシスティックというか、ヒロイスティックなものも見えなくもないんだけれど、ドラクロワのそれとボードレールのそれが、うまく理解できるはずもないし、僕はそんなに強くはないのだけれどすごく説得力があるような気がしたのだ。けれどそれがどのようなものだったのかがまったくわからないから考えたくなる。
それを考えると、マネのことをすぐ思い浮かべてしまって、昔ゴヤの《マドリッド、1808年5月3日》にいたく感動した経験があって、その後でマネのこの作品は《マクシミリアン皇帝の処刑》は、ひどくびっくりしたのを覚えている。

けれど今になって考えてみると、あのマネの政治や死に対する無関心さ、距離の置き方というのは一つの態度であったと同時にドラクロアのサルダナパロスのあの意識というのを引き継がれているような気がした。彼の死に対する態度はあくまで<無−関心>なのだと思う。それはやっぱり主題よりも先に感じ方が強く現れていると僕は思うのだ。感情表現を抜き取っても、マネの中には確かに感じ方が強く現れている。それは、色彩や光の問題と同時にマネの無−関心の目線がしっかりと根付いているからだろう。けれどもマネがドラクロアやゴヤなどの感情表現を抑圧していく感じというのは一体どのようなものだったのか?そこから絵画が還元主義的になっていくとすれば、もしくはセザンヌは明らかに歴史的なものを引き継いでいっているがそれはどのようなものだったのか?モダニズムとは一体なんだったのか?絵画における形式の問題を僕は誤解していないだろうか?彼らが感じていた事が抜け落ちて、歴史を見ていくことの危険性というのがすごくあるような気がする。