Jockum Nordström(ヨーケム・ノルドストリョ-ム) は、スウェーデンのストックホルムに在住の作家である。
北欧の作家が取り上げられ始めたのは90年代後半。それまではまったくと言っていいほど有名な作家は出てきていない。
さまざまな都市から優れた作家ができたのは、批判はいくらでもできるが文化多元主義のおかげだと言える。

この作家はいわゆるペインティングを描く作家ではない。彼はコラージュやドローイングなどを描き続けている。キャンバスでは作品を作っていない。
ドローイングブームが到来の昨今で彼の評価は高まっているが、しかし彼はそんなブームが到来する前からドローイングを描き続けてきた作家である。(ちなみに彼はMamma Anderssonの夫である)
しかし、彼の作品群を見ていくと、彼が絵画的構造を意識した作家であることがよくわかる。

彼はシュールレアリスム的な無関係にさまざなものを画面の中に入れ込んでいる。それら無関係性はモチーフの問題でもあり、空間の問題でもあるだろう。
そして、彼の作品の中に登場してくる多くのモチーフは反復されて描かれている。
団地やマンション、音楽の演奏家、セックスをしている人、貴族、裸の女などである。
そこでは品格と野蛮、明るさと暗さ、静寂と喧騒、パブリックとプライベート、クラシックとコンテンポラリーなど対比しあう要素が一つの画面に混合されていることがよくわかる。それらの要素のコントラストが非常に平板につまり均質に見えてくる。
今あげたモチーフの問題と独特の色彩は、一つの主題を作り上げていると言っていい。
彼の作品の色彩の部分で、最も象徴的に使われているのが黒ではないだろうか。
彼は黒を他の色彩と変わらず一つの色彩として扱っている。デッサンするためにつまりボリュームを描き出す陰影のために黒を使っているわけではないということ。
だから彼が黒を多く扱いながらも画面は非常にフラットであり、黒は非常にコンポジションを意識させる。
彼が黒を使う場合、画面の中の光源の設定などはまったく無視されていることを考えてみてもいいだろう。
モチーフと色彩の考え方において、無関係性を強調したが、無関係なものがただばらばらに存在すると言うことでは、それは画面がただバラバラになるだけである。
では彼はどのようにしてそれらを統合しようか。
まずそれを考える上で黒に対比的に使われるクリーム色について考えてみよう。彼が使うクリーム色は(少し強引な解釈だが)、多く場合自然の光ではなく室内の光を思わせるものである。それは非常に均質な光として表現されているところから感じるのかもしれない。

彼の絵の中で、黒とクリーム色の使われ方は、明るい部屋の中に闇が浸蝕してくるような意識といっても言いかもしれない。彼の作品では、内と外の問題が、たえず意識されているといって言いだろう。彼が使う色彩のコントラストというのはそういうものの形式的な側面として見えてくる。それは、彼が部屋の内と外、パブリックとプライベートをごちゃ混ぜにすることと関係している。音楽と言う空間を充満させ、変容させるもの。もしくはセックス(その行為は非常にプライベートなものであり、運動は出たり入ったりだからだ)や、マンションのジオラマからも良くわかるだろう。
また、彼の作品の画面分割が考えられ方が、映画のモンタージュ的な意識(ヒッチコックのような)が強いのは、視覚的な問題と言うよりも、内と外の問題を象徴的に繋いでいるからだ。
しかし、やっぱり寒さや環境というのが画面には出るもんだなとも思う。いや,こんな言い方は少し暴力的だが。
Jockum Nordströmを見て、joan miro(ホアン・ミロ)との形式的な部分の関係性を考えていたが、共通点がありながらもそこから見えてくる部分は、ずいぶんと違うことがよくわかる。miroの黒の使い方は、黒が異常に輝いてみえる。
Jockum Nordströmの黒は、ブラックホールのように沈み込んでいくようだ。
それは、同じスウェーデンの映画監督イングマールベルイマンの透明感と闇が混在する神秘的で非常に暗い黒を思い出させる。