先週の土曜日のヘルシー温泉福助の帰りは金銭的に節約して、地下鉄谷町線の田辺駅まで歩き、南森町で乗り換えて堺筋線から阪急で帰るルートを取りました。途中、ヘルシー温泉福助の最寄り駅である近鉄南大阪線の北田辺駅の入口前に「開高健文学碑」というのがありました。
碑には「破れた繭 耳の物語の一節より」
昭和十三年に一家は北田辺へ引っ越すことになるが、当時はこのあたりは大阪市の南の郊外であった。畑、水田、空地、草むら、川、池などが、どこにでもあった。腺病質で、内気で、おとなにろくろく声をかける気力もなかった子供は、やっぱりはにかみ屋で臆病者だったけれど、泥まみれになる快感に侵されることになった。川をせきとめて掻い堀りしてフナやドジョウやナマズをつかまえる。ねっとりとして、奥深く、ひめやかで豊満な、あたたかい泥にむずむずと手をつっこむ快感には恍惚とならせられる。
とありました。
開高健(かいこうたけし)文学碑の説明がありました。
戦後文学の旗手で、芥川賞 、菊池寛賞 、日本文学大賞を受賞した開高 健 (1930-1989)は大阪市天王寺区東平野町に生まれる。
7歳の時に住吉区北田辺町(現東住吉区)に転居、少年、青年時代を北田辺で過ごす。大阪市立北田辺小学校、旧制大阪府立天王寺中学校(現天王寺高校)、旧制大阪高等学校を経て大阪市立大学法学部に入学する。
在学中、文芸部に入部し創作活動を始める。卒業後、壽屋(現サントリーに入社しコピーライターとしてその才能を宣伝部で発揮する。27歳の時 「パニック」を発表、作家として注目され、翌年「裸の王様」で芥川賞を受賞する。その後作家活動に入り東京に転居する。
開高健は終戦をはさんだ波瀾の時代に多感な少年、青年時代を北田辺で過ごした。ここに自伝的な小説「破れた繭」の一節を記し、開高 健の文学を記念する。碑は多くの方々の基金と協力で建てられた。
田辺駅まで歩いたのですが。近くに「末廣神社」というのがあるようなので、行ってみました。ところが普通の民家という感じでした。ネットで調べてみると「神理教」という神道系の宗教のようです。「神」を「真」に変えたら恐ろしいのですが(笑)。

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