まだまだ福井のネタは残っております。
いづみ湯を出たのは夕方の5時半、一時期に比べると日が長くなりました。小坂先生のセミナーにはまだ1時間あったので、さらにぶらつくことにしました。この周辺は非常に寺が多いです。さらに歩くと「橘曙覧 三女 健子の墓」というのがありました。橘曙覧は幕末の歌人として知られていますが、本居宣長を尊敬し、宣長の弟子であった国学者の田中大秀の弟子になっています。近くに坂があって、「愛宕坂」といいます。愛宕坂ですが、柴田勝家が朝倉氏の城下町であった一乗谷から愛宕大権現社(現在は足羽神社に合祀)を移したことに由来します。坂の上には足羽神社がありますので、坂を上ることにしました。
坂の入口には「橘曙覧記念文学館」があります。曙覧は天保10年(1839)28歳の時、弟に家督を譲り、9年間この場所に居を構え、「黄金舎」と称しました。来るのが遅かったので、文学館は既に閉館していました。坂を上っていくと足羽神社がありました。
足羽神社の御祭神ですが、第26代天皇の継体天皇と大宮地之霊5柱で、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神をいいます。福井神と綱長井神が祀られている神社は京都の福長神社があります。
由緒には
継体天皇は、応神天皇六世の皇孫で、御名を男大迹王といわれ御母の里高向(現・丸岡町南部)でお育ちになり、大変徳の高い御方に成長されました。その頃の越前の国は、沼地で人の住むにも限られた土地しかない国でしたので、男大迹王は大変心を痛められ、足羽山に土地を卜して御社殿を建て、大宮地之霊を祀って、神前に誓い、地の理を調べて現在の九頭龍・足羽・日野の三大川を作り、三国に水門を開き、諸水を海に流されて越前平野が出来ました。これにより農業が盛んになったばかりでなく、川を利用して舟で荷を運べるようになりました。その他、道を作り人々の住居を定め、耕種、養蚕、採石、製紙、その他諸産業興隆の道を教えられ、昔より越前開闢の御祖神と称え崇め尊ばれてきました。
時恰も、25代武烈天皇が崩御され、皇嗣ぎが居られなかったので、諸大臣が相談し幾度となく男大迹王を天皇として御迎えに参り、遂に26代天皇の御位に即かれました。
此の時天皇は、越前の国を離れるに当たり、この地を慕い、また後に残す人々のことを心配されるあまりに、「末永く此の国の守神に成ろう」と、自ら御生霊の此の宮に鎮め、御子馬来田皇女を斎主とされ、都に立たれました。皇女は天皇の御霊を大宮地之霊を守護り、阿須波の神名により足羽宮と称え奉ることになさいました。福井、足羽郡、足羽川等の名も皆、御神名に起縁している訳です。
継体天皇が御祭神の神社は圧倒的に福井県が多いのですが、このことに由来しているわけです。天皇は万世一系ですが、一部に皇統が途切れていると主張する学者もいて、武烈天皇で皇統が途切れていて、今の天皇は継体天皇から続くというものです。
近くには継体天皇の像がありました。さらにそのそばには鉄塔があって、「FBCあすわFM」とありました。福井放送ラジオのFM補完中継局で、以前アナログテレビの送信施設だったものを利用しています。
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