昨日の日記の続きです。
サントリー山崎蒸溜所の受付の手前にお地蔵さんが並んでいて、「西観音寺閻魔堂址」の石碑がありました。石碑には、
天平18年 (746年)、行基が聖武天皇の帰依仏である観音像を奉じて建立した西観音寺 (天台宗)の総門の外に閻魔堂があった。
明治5年(1872年)本寺は椎尾神社となり、閻魔堂は解体された。
堂に安置してあった閻魔像(重要文化財)と十王像は、小野篁の作と伝えられ、筑後古津、越中中野の像とともに有名である。
受付を通り椎尾神社へ向かいました。途中両側にサントリーの工場があり、見学者の行列とすれ違ったりして無断で入って良いのかと思いますが、れっきとした公道です。
椎尾神社の御祭神は素盞嗚尊(スサノオ)、聖武天皇、後鳥羽天皇です。突き当りに拝殿と本殿がありますが、この場所が西観音寺の本堂だった場所です。本殿の右に鳥居があって五郎八稲荷神社、左の祠は春日社です。石段の右に弁天堂があるのですが、その後方には五社明神の祠があって、西観音寺の鎮守であった尾上神社だったそうです。
椎尾神社から参道を引き返して、踏切の手前で左に曲がったのですが、金属棒の鳥居があって祠が2宇ありました。どういうものかはわからないのですが、重要なのは御神木。樹齢400年の椋の木なのですが、よく見ると根っこが分かれていて2本の木からなっています。正面の木はY字に、後ろの木はまっすぐに伸びています。そして後ろの木と前の木が寄り添うようにくっついています。ということでこの木を「I♥Yの椋 muku」として、「夫婦和合、恋愛成就」のパワースポットとなっています。
右手にJR京都線山崎駅のホームを見ることになるのですが、ホーム上が京都府と大阪府の府境になります。さらに進むとホーム下に人だけが通れるトンネルがあります。ここは西谷川という小さな川が流れているのですが、トンネルに沿って府境があります。高さは1.6m程度で、172cmの私が腰を伸ばすと頭が天井にくっつきました。
トンネルを出ると、「大阪府」と「島本町」の看板があって、府境の大阪府側に「関大明神社」がありました。
本殿 一間社流造 和様に唐風をまじえた鎌倉期の手法が在し、大阪府文化財に指定されている。
古代、当社のあたりに関所が置かれたが、嵯峨天皇の河陽離宮造営のころには廃されていた。
関所には関守神が祀られ、廃関後も疫病流行の際には疫神祭が行われた。
関跡には関戸院 ( 官舎 ) が建てられ、貴族や官人等の休憩・宿舎に使われた。
この院で菅原道真が左遷の途中出家し、配流の藤原伊周が病をえて発ちしぶったり、藤原道長が全部銀製の器で食事のもてなしを受けたり、都落ちの平家一門が玉の御輿をここにすえ男山八幡に都帰りを祈ったりした。
また、ここは西下の人々との別れの場となり、惜別の歌を残している。
はるかなる旅の空にもおくれわば浦山しきは秋の夜の月 平兼盛
御祭神は、大己貴命(オオナムチ、大国主)と天児屋根命(アメノコヤネ)です。
「従是東山城國(これより東、山城国)」の道標を通って西国街道を東に向かいました。ここからは京都府です。
(続く)
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