台風が近づいています。午後11時の時点での京都の最大瞬間風速は午後10時54分の24.4mは8月としては観測史上最大の記録となります。台風には厳重な警戒をお願いします。このため、本日予定されていた北神塾の懇親会は延期となり、今日は昼間に「神道の心を伝える」の京都支部の実行委員会に参加して家に帰りました。
昨日の話になります。
昨日は夜に大阪の「日本月例研究会」に行ってきましたが、その前に銭湯に行ってきました。
今回行った「但馬温泉」の最寄り駅は阪和線の北信太駅で南東へ歩いて5分ぐらいのところです。
昨日は今日の最高気温も38.0℃でしたが、和泉市に近い堺では39.7℃の観測史上最高を記録しました。
北信太駅の東に墓陵のようなものがあったのですが、信太貝吹山古墳というものです。
信太貝吹山古墳は、信太山丘陵北西麓の海岸線に向かって舌状に派生する低位段丘に立地しています。
古墳は全長約60m、後円部径50m、同高さ7.7mの前方後円墳ですが、前方部が短いことから、帆立貝式古墳とよばれています。
埋葬施設は明らかではありませんが、過去の調査等で、墳丘に埴輪列と葺石が施されていたことが確認されるとともに、円筒埴輪、形象埴輪、滑石製槽等が出土しています。
和泉市北部の信太地域では、上代町にある和泉黄金塚古墳に次いで、5世紀中頃に造られた古墳です。
古墳は、墳丘や周濠の保存状態も良好であり、和泉北部の古墳時代社会を知る上で貴重な位置を占めていること、また江戸時代に和泉・大島郡内の一橋家領54ケ村の農民が蜂起した「千原騒動」の際、一揆に参加した農民たちが、法螺貝を合図にここに集まったことから「貝吹山」とよばれるようになったとも伝えられており、近世史の上からも重要な位置を占めていることから、和泉氏の歴史を語る上で欠かすことのできない貴重な文化財として墳丘部が和泉市史跡に指定されています。
セブンイレブンの東の道を南へ歩くと神社がありました。「旧府神社(ふるふじんじゃ)」というものでした。参道左に「白狐化石」というのがありました。葛の葉物語で狩人に追われた一匹の白狐が逃げる途中この石の後ろに隠れたともいい、或いはこの石に化したともいわれている。とありました。
由緒書きが無いと思っていたのですが、「ご自由にお取りください」と「式内舊府神社参拝のしおり」がありました。それによると御祭神は「武速素戔嗚大神(スサノオ)」です。
平成17年の拝殿新築工事の際に発見された江戸時代の棟札には、墨書銘で「氏神牛頭天皇」とあり、「氏神」とは、尾井町(信田郷尾井村)の氏神様であることを意味し、「牛頭天皇」とは、印度の祇園精舎の守護神で、日本では素戔嗚神と習合し、京都祇園の八坂神社などと同様に、古くから当社における防疫の神様(人々の病気や災いを取り除く神様)としての信仰があったようですが、この度の貴重な棟札の発見は、それを実証したものともいえます。
御由緒は
創立年代は不詳ですが、社号の「舊府(ふるふ)」の由来には、神功皇后の行宮所「小竹の宮(しののみや)」に由来するという説と、和泉国府が当社地から現府中町に移管した「新国府」に対して旧国府跡「旧府(旧府神社とも記す)」とする説があります。
前者は、「日本書紀」巻第九、神功皇后摂政元年二月の記事にある「小竹宮」と「小竹の祝(しののはふり)」と「小竹(しの)」を、ここ「信太(しのだ)」の旧表記が「小竹田(しのだ)」であることに関連させたと思われる説で、南の伯太神社、泉井上神社にも一連の皇后巡行に関する社殿がありますが、この「日本書紀」の記事では、「皇后南詣紀伊国」という文脈から「小竹宮」や「小竹の祝」は、実際には更に南下した和歌山県(日高地方は那賀郡志野など)とする説もあります。
後者は、和泉国府跡地に対しての「旧府」とするよりも厳密には、奈良時代、霊亀2年(716)和泉国が成立する以前に、河内国の一部として和泉監(いずみのげん)(大鳥郡、和泉郡、日根郡の三群の特別行政管理地域)もしくはその三郡管理に加え、元正天皇の離宮であった珍之宮(ちぬのみや)(和泉宮ともいい、同じ信太郷内の上町遺跡がその跡地といわれる)をも管理、警衛するための役所が置かれ、現府中町御舘森(みたちもり)が、和泉監衙(いずみのげんが)(役所)跡地と推定されているので、府中町に移転するよりも以前の和泉監衙か、それに相当する役所の跡地としての「旧府」という意味があるものと思われます。一方で府中町の和泉監衙は、天平12年(742)和泉監(三郡)が再び河内国に吸収された際に一旦廃止され、天平宝字元年(757)今度は三郡が和泉国として河内国から分離成立後、かっての和泉監の運営役割をその場で和泉国府へと引き継がれたものと考えられます。どちらに致しましても、当社が創建当初より古代国家の「宮」や「府」として政治(まつりごと)を司る要所の鎮守社であること、少なくとも千数百年以上の歴史を有する小社であることを語るものであります。
また後世の皇室や貴族が、和泉国府や紀伊国、熊野詣でなどに赴く際、いわゆる信太の森(当社や葛葉稲荷社を含め、泉大津市北東部に広がっていた楠の森。泉北郡の歌枕ともなる)を縦貫、通過するための旧街道付近に位置することからも、氏子村のみならず、行き交う人々の崇敬も篤いものであったといえるでしょう。平安時代、官舎や延喜式内社に列格、神階正五位を授かっていた( 「三代実録 」 )ことは、その当社の広く、あらたかな霊験を裏付けているものです。旧社格は村社です。
旧府神社の斜め向かいに「但馬温泉」がありました。
ところが但馬温泉ですが、30日をもって廃業となります。男湯は右側です。番台式で500円玉を出すとお釣りは200円、銭湯組合に加入しているので本来440円ですが、300円です。脱衣場は中央にテーブルがあって、周りに椅子があります。右側にロッカーがあって4段×10列です。
浴室は右側の壁に8か所、突き当り右側にシャワー無しが3か所あります。右手前が水風呂、左手前が4人ほど入れるスチームサウナです。浴槽は真ん中左寄りに手前が浅湯、奥が深湯の槽、左奥に手前がジェットと泡風呂、奥が低周波電気風呂でした。右突き当りに風車の洋風の絵がありました。
脱衣場の奥の上に「古そうな料金表」があったのですが、大人(12歳以上)三百圓などとあったのですが、「女洗髪(16歳以上)」とあって圓とだけ書かれていて空欄でした。昔は京都でも夫人洗髪料がありましたが、今は廃止されています。もしいま存続していたら福島みずほや辻本清美の出番でしょうね(笑)。
和泉市では4月にも菊水温泉が廃業となっています。
客が主人に他は高いからなと言っていると、ウチが安いので普通の銭湯は440円と
言っていました。
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