先週東京へ行った時の清澄庭園の続きです。
庭園の中に芭蕉の碑があって、芭蕉庵の跡が近くにあるということでしたので行ってみることにしました。
途中、読売江東ビルの一角に「平賀源内電気実験の碑」がありました。
碑には
源内は享保十三年(1728)高松藩小吏の家に生れ和洋の学を勉学し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かず かずの発明工夫をなし神霊矢口渡の戯作者でもある。源内はわが国最初の電気学者にて安永五年(1776)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄一 丁目私宅にて電気実験を行い同八年(1779)五十一歳で没した。
その隣にアサノコンクリート深川工場があるのですが、そこには「本邦セメント工業発祥の地」の碑や浅野総一郎の立像などがあります。明治8年(1875)深川セメント製造所が完成し、日本初の国産セメントの製造に成功しました。深川セメント製造所は明治16年浅野総一郎に払い下げられました。
隅田川沿いに歩いて行ったのですが、芭蕉庵跡は道よりもさらに川沿いにあって通り過ぎてしまい、到着したのは江東区芭蕉記念館でした。展示室には芭蕉ゆかりの資料がありました。
記念館から隅田川沿いを下っていくと分館の史跡展望庭園がありました。
その斜め向かいには「芭蕉稲荷神社」がありました。この場所が芭蕉庵の跡地だったようです。
俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年(1680)から元禄七年(1694)大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、まだここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年(1921)東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽した。
しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
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