先週の金曜日、仕事が終わって土日は休みなので、短縮営業になったとはいえ10時までの天山の湯でゆっくり横になろうと行ってみたら14日から休業していました。その他にもスーパー銭湯では壬生のはなの湯も17日から休業ということで、土曜日は唯一開いている「ひじりのね」で横になろうと行ってきました。しかし、最寄りバス停の「久我の杜」(難読地名です)まで1時間半かかります。ところが、風呂は開いていたのですが、リクライニングチェアやマッサージチェアのある場所は「使用中止」の看板が建っていました。みごとのひじりのねにイケズされましたが、行く前に近くの神社に行ってきました。
正式には「羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)と言います。一般には「恥ずかし神社」もとい「羽束師神社」です。
御祭神は言うまでもなく造化三神の一柱である高皇産霊神(タカミムスビ)ですが、神皇産霊神(カミムスビ)も祀られています。
当神社は雄略天皇21年(477)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斉しています。 皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長する力を「ヒ=霊力」と言います。 又、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神籬)に縁の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭にかかわりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。 随って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスビ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。 この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。 続日本紀大宝元年(701)4月3日の条に「勅して山背国渡都賀志の神等の神稲は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。
本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。 大同3年(808)に斎部廣成公が諸国騒擾の多き様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された御社です。
延喜式の制では(967)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いました。
割拝殿があって、その奥が本殿です。本殿の賽銭箱の前にはなぜかひじりのねのチラシが置かれていました。
本殿右奥に稲荷神社のようなものがあり、その手前左右に先ほど紹介した十一社があります。右手前から天照皇大神(三重 伊勢神宮)、八幡大神(京都 石清水八幡宮)、春日大神(奈良 春日大社)、大三輪大神(奈良 大神神社)、籠勝手明神の5社、左は6社あって、若王子大神(京都 若王子神社)、愛宕大神(京都 愛宕神社)、嚴嶋大神(広島 嚴嶋神社)、稲荷大神(京都 稲荷大社)、えびす大神(兵庫 西宮神社)、貴布祢大神(京都 貴船神社)です。
もう一つ、北向見返天満宮というのがあるので、行くことにしました。一の鳥居へ戻ったのですが、一の鳥居と二の鳥居の間は一般道になっています。一の鳥居から向かって右にい曲がり、さらに右へ曲がったところにあります。
この地は平安時代前期の延喜元年(901)、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、時の右大臣管原道真公が筑紫太宰府に下向の折、先祖代々縁り深き、羽束師神社に参詣の際、立ち寄られたところであると伝えられている。その際、「君臣縁の切れしを再び結び給へ」と御祈念の上、「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 杜といふらむ」の歌を詠進せられ、北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところでもある。
後年、菅原道真公の威徳を称える人々により、神霊が奉祀され、都の行く末を案じ守護するかの如く、北向に奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広い崇敬を戴いている。
平成27年(2015)には大々的に境内整備が実施され、現状に一新された。
北側に羽束師神社の所有らしき空き地があったのですが、分譲住宅が建つようです。なかなか神社の運営も厳しいようです。

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