日曜日の富山へは土曜日の夜に高速バスで行きました。以前、魚津へハンナリーズのプレシーズンゲームを見に行った際には夕方の富山発の大阪行きの高速バスで帰りましたが、夜行バスは初めてです。昼間の高速バスは尼御前と多賀で休憩があったのですが、今回の夜行バスは乗客の休憩地は草津で20分だけでした。あと運転手だけの休憩が南条で15分ぐらい、小矢部川で1時間ほどあって、午前6時前に富山駅に着きました。富山だから雪が積もっているかと思いましたが、全くなし。今年は暖冬ですが、富山も例外ではなく、富山市の1月の平均気温の6.1℃は観測史上最も温かい1月になりました。これまでの記録が昭和47年の5.0℃ですから一気に1.1℃も更新したことになります。
バスを降りて腹ごしらえをしようと思ったのですが、開いているところはありませんでした。駅そばで時間をつぶしました。富山駅ですが、3月21日に富山ライトレールと市内の路面電車がつながるそうです。
近くに神社があれば参拝しようと探したら、「奥田神社」というのがありました。最寄り駅は富山ライトレールの下奥井駅なのですが、次発は25分後。歩いてなら20分で行けるので、歩くことにしました。
日曜日は6時台は人通りがまったくありませんでした。途中、6時間後にハンナリーズとグラウジーズが戦う富山市総合体育館も人は全くありませんでした。さらに歩くと煙突が見えて「竹の湯」という銭湯がありました。富山県は人口10万人当たりの銭湯の数が日本一と聞いたことがあります。先日行った政令指定都市の浜松はわずか2軒、静岡市も2軒しかありません。基本的に北陸方面は銭湯の数が多めで新潟市が12軒、金沢市が19軒あるのですが、富山市は25軒あります。
さらに歩いて右へ曲がると奥田神社がありました。
御祭神は伊弉諾尊(イザナキ)、伊弉冉尊(イザナミ)、天照大御神(アマテラス)。菅原道真公、琴比羅大神です。
由緒ですが、
奥田神社はその昔熊野社と称し寛保元年(1741)凡そ二百七十数年前奥田郷であった「奥田、下奥井、下新、鶴田、下赤江、桑原、中島、上赤江、上奥井、西田、窪、狭間、粟田、粟島、下富居、上富居、宗左ヱ門開、弥右ヱ門」の以上18ヶ村部落を統括する守護神として崇められておりました。
昭和9年(1934)11月27日附近に鎮座の琴平神社を合祀すると同時に指定村社に昇格し、奥田郷に在りて指定村社としてただ熊野神社一社あるのみで広く富山市民からも由緒ある神社である事が認知され、信仰を篤くし敬神の念を高めたのであります。
熊野神社は官幣社熊野那智大社より「みたま」を受け、その分社としても知られ、その後赤祖父傳兵衛氏当村に来て永住の地となし社殿の改築にに努めました。当時境内は1200余坪の広大な敷地を有しており樹木鬱蒼とし老木も無数に繁り漁師等は出漁の際、或は岩瀬港に出入りする航海に唯一の目標林とされていたと伝えられております。
昭和48年(1973)熊野神社を奥田神社と社名変更により以来奥田神社と呼号され、次いで53年(1978)9月社殿を改築し、昭和56年(1981)9月玉垣の竣工を見て神社の風格を一新し、現在に至っています。
社紋の烏は神武天皇が日向の国から蝦夷を討つため紀伊南端より熊野に北上、御東征の時進路に難渋して困っていたところ天の神は道案内として「八咫烏」を遣わしたので一行はその導きによって大和の熊野川のほとりにたどり着いたといわれています。その由緒で熊野神社の社紋が烏となっています。
手水舎には「無病の水 御神水」という木札が掲げられていました。
拝殿の右側には「導き八咫烏」というのがありました。金色の八咫烏で周囲に方角の十二支の漢字が刻まれていました。自己の生まれ干支や方位を左手でおさえ、右手で八咫烏を撫でれば、良い人生に導かれます。と書かれていました。もともと熊野神社であったことがわかります。賽銭箱の横に「八咫烏おみくじ」という金色の八咫烏のおみくじがありました。初穂料500円とありましたので、賽銭箱に500円を入れて1個もらっていきました。
おまけ
その後、下奥井駅に向かったのですが、途中「奥井鉱泉」という銭湯を通りました。開店していれば入るのですが、さすがにこの時間は閉まっていました。

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