昨日の日記の続きです。
遠州病院駅から1駅で浜松八幡宮の最寄り駅の八幡駅に行くことが出来ます。小銭が無くなってきてあとは万札なので券売機で万札を崩そうとしました。しかし、千円札しか使うことが出来ず、無人駅なので数少ない小銭を使う羽目になってしまいました。
浜松八幡宮の祭神ですが、品陀和気命(ホンタワケ 応神天皇)と息長足姫命(オキナガタラシヒメ 神功皇后)が八幡神社の祭神ですが、玉依比売命(タマヨリヒメ)も祀られており、相殿として伊弉諾尊(イザナキ)と伊弉冉尊(イザナミ)も祀られています。
由緒ですが、
八幡宮の御祭神は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)であって、石清水八幡宮は中御前の応神天皇をはさんで、東・西御前にそれぞれ神功皇后、宗像三神をお祀りしてあります。当社でも、馬込町に在った白山神社の祭神である、伊弉諾・冉尊を下垂に祀られていた玉依比売命を本殿に遷し、祀ってあります。749年、天平21年に、神武天皇は、大仏鋳造に神の援助を仰ぐため、宇佐神宮より八幡神を迎えられ、更に859年、清和天皇、貞観元年に僧行教によって、同じく宇佐八幡神を男山に迎えました。神功皇后摂政時代の国威発揚期の人心や、応神天皇時代、有力帰化人による文物伝来の伝承を史実として回顧した当時の人びとの心情によって、単なる産土神や、氏神でなく、「国家の祖廟」、「鎮護国家」の神として、伊勢の皇大神宮に次ぐ崇拝をうけるに至りました。
諾冉ニ尊は、神話では「国生みの神」。玉依比売命は、神武天皇の生母として語られ、民族信仰上、祖先神として敬われた神々であります。
源義家が男山八幡宮神前で元服したという伝承によって、武家の棟梁源氏の氏神となったことから、八幡信仰は、中世以降さらに大きな地歩を固めました。この過程において、極めて自然に神仏習合の信仰が浸透して、八幡大菩薩の称号も生まれました。
「社伝及び郷土史家研究に基く由緒」
社伝によれば、仁徳天皇、遠津淡海の海運安穏のため、海神、玉依姫命を、現小沢渡町の許部の里にお迎えしたとあります。この許部神社は、「延喜式」の敷智郡六座の神の中に登録され、極めて由緒のある神社であります。その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え、「浜松」の地名となったとも伝えられております。この翌年、平将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起したため、石清水八幡宮の神霊を頼る信仰が盛んになった頃でありました。
「武家の信仰」
1051年、後冷泉天皇、永承6年、八幡太郎義家が、陸奥に出陣の際、当社に参篭し、源氏の氏神である八幡社を喜び、武運を祈って
契あれば 帰り来るまで 石清水
かけてぞ いはふ 浜松の里
と詠進し、武運を祈って社前に楠の下に旗を立てたと伝えられ、「御旗楠」とよんでおりました。これが、現存する「雲立の楠」の起源とされています。
1432年、後花園天皇、永享4年、義教将軍が富士山を慕って駿河へ下向した際、先述の小沢渡町より移した松が成長して臥龍の様に這い伸びている姿を見て、「浜松の音は颯々」と謡ったといい、この松を「颯々の松」と語り伝えられてきました。この縁起は、現在、野口町に石碑が残されていますが、昭和20年の空襲によって焼失して、今の松は三代目であると郷土史・『浜松の史跡』で述べております。
1570年、正親町天皇、元亀元年6月、徳川家康が岡崎より浜松へ入城した時、源義家の東征祈願の由緒があり、更に鬼門鎮守の氏神として信仰厚く、1586年、駿府に移るまで、当社を祈願所として数度社参して、武運長久を祈ったと伝えられています。更に、1572年、元亀3年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り、浜松城方面へ飛び立ちました。家康は八幡宮の加護により「戦われに利あるべし」……と勇躍、城に帰り、犀ヶ崖に布の懸橋を渡して、武田信玄の入城を防ぐことができました。有名な酒井忠次の陣太鼓の武勇伝も、この時のことであります。
これにより、家康開運の社前の楠(「御旗楠」)を「雲立楠」と呼ぶに至りました。これらの伝承は、古老・郷土史家の伝える諸説であります。その後も家康は代々当社を祈願所として、旗・神馬を奉納いたしました。
豊臣秀吉は、北條氏征討の資金を調達するため、神領を没収し、寺島八幡の社領であった現在の寺島町・旭町付近のみを、八幡地として残しました。1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、歴世・社領五十石の朱印を与えましたが、明治新政権により上地とされ、同年、郷社に列しました。
拝殿の右側には由緒にもあった雲立楠の木がありました。境内社ですが雲立楠の奥に2社あって、右側が東照宮、左側が浜松稲荷神社でした。東照宮の御祭神はもちろん徳川家康ですが、参道に「戦勝記念」という石碑が建っていました。裏側には「明治38年」とあったので、日露戦争の戦勝記念碑でしょう。そして、浜松稲荷の御祭神はもちろんウカノミタマと言いたいところですが、それ以外にもあるようです、駒札に書かれていたのは倉稲魂命(ウカノミタマ)、大己貴命(オオナムチ(大国主))、大宮比賣命(オオミヤヒメ)、大田命、月夜見命・・・え、ツクヨミ?
ツクヨミが祀られている神社を探していたのですが、意外なところにありました。
ちなみにオオミヤヒメはウカノミタマの巫女と言われています。大田命はサルタヒコの子孫と言われていますが、なぜ稲荷神社にツクヨミやサルタヒコの子孫が祀られているのかはわかりません。
ツクヨミの祀られている神社は、思い切った賽銭をと思ったのですが、、先ほども書いたように、遠州鉄道のイケズにより小銭がほとんどなく、100円玉が1枚とあとは10円玉と1円玉でしたが、100円玉1枚はこの後の電車のために取っておきたいですし、万札を放り込む勇気はありませんでした(笑)。

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