一昨日の日記の続きです。
阿波狸古戦場から勝浦川の土手を歩いて行きました。しかし、この道は歩道がなく危険でした。何とか10分弱で徳島縣護国神社に到着しました。
大鳥居を撮ろうとした時、手を滑らせてスマホを落としてしまいました。スマホの表面のガラスが割れ無残な姿になってしまいました。動作上問題が無かったのが不幸中の幸いでした。
徳島縣護国神社は以前徳島城跡にあったのですが移転しています。
右側に「徳島県護国神社移転造営之記」という石碑があって、
明治戊辰の役以来 国難に殉ぜられた英霊を奉斎する徳島県護国神社は明治以来徳島城址城山山頂に鎮座せられていたが 近年頓に高齢化する御遺族は参拝も困難となる中 平成12年この事情を察せられた篤志家川崎阿佐恵氏より現社地2,730坪の寄進を受け社殿の移築造営の事業を起すこととなり 関係者協議の上神社の移転造営を計画 厳しい経済情勢の中 遺族会をはじめ一般県民より寄せられた浄財7億2千万円をもって造営工事を完成 平成15年9月本殿遷座祭及竣工奉告祭を斎行いたしました
今後 当護国神社が県民一人一人と深い御縁のある神社として 又平和の礎となられた御祭神の慰霊顕彰の聖地として 末永く崇敬せられんことを念じて止みません
ここにその沿革を碑に刻して後世に伝えんとするものであります
左には「川崎阿佐恵女史顕彰碑」という石碑がありました。
城山から此処に遷座した徳島縣護國神社の新社地は、平成12年6月15日 川崎阿佐恵氏により寄贈されたものである
川崎女史は明治41年11月1日 父 川崎彦一 母 キヨノの長女として三好郡池田町に生まれ大正14年3月 徳島県立徳島高等女学校を卒業した
若き頃より美術に造詣深く 昭和26年徳島市籠屋町2丁目に徳島美術館を設立して書画骨董美術品の卸売商を営み 更にビル管理会社をも経営して財を成した また 敬神の念深く特に出雲大社を篤く信仰し 昭和56年3月26日 同大社より御神徳を拝戴して徳島市雑賀町東開に大國神社を創建 自ら祭主として祭祀を斎行 布教に従事し多くの信者を集め平成10年よりこの地に居住して祭祀に専念することとなった。
平成拾弐年に徳島縣護國神社が新社地として寄贈を受けた物件は次の通りである。
一.徳島市雑賀町東開21番地の1 外5筆 2730坪
一.大國神社社殿木造瓦葺平屋建 一宇
一.大國神社社務所木造瓦葺平屋建 一棟
尚 川崎女史は右社地寄進 御神徳宜揚げの功績を称えられ 平成12年11月2日 池田厚子神社本庁総裁より感謝状を授与された
こういう人がいるからこそ、徳島県の護国神社が続いたわけですね。
まっすぐ進むと本殿がありました。
右側にはいろいろな石碑がありました。左側には大国神社がありました。また参道の左側には「月映神座」という小さな祠がありました。大国神社発祥の地だそうです。
大鳥居を入って社務所を左へ行くと「徳島県戦没者記念館」というのがありました。中に入るとパネル、地図や写真、遺品などがありました。英霊の写真が通路の両側に並んでいて通路に入った瞬間、照明が点灯しました。英霊をパソコンで検索するシステムもありました。徳島県の遺族会が運営していますが、ここまで充実した記念館は他には無いように思います。
川崎氏が寄贈したことにケチを付けるわけではありませんが、交通の便は悪く、公共交通機関では1時間に1,2本しかないバスに乗ってさらに危険な道を10分歩くぐらいしかなく、自家用車が運転できないジジババならばタクシーぐらいしか方法は無いように思います。
帰りはバスのタイミングが悪いので30分ほど歩いてJR文化の森駅まで行きました。まだ午後2時台で、徳島駅に戻っても時間があるので、逆方向の小松島市の列車に乗りました。
(続く)

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