今週は祭日があったので、本来土曜出勤日なのですが、今日は「有休取得奨励日」になっていて、今月有休が発生したばかりの私は半強制的に有休取得でした。
大阪に行ったので、第4ビルではなくて第3ビル特設会場の宝くじ売り場でジャンボ宝くじを買ったのですが、向かいの露天神社で夏祭のようです。露天神社に行ってきました。
露天神社は「ろてんじんじゃ」と読みそうですが、「つゆのてんじんじゃ」が正しい読み方です。間違えやすいので「露 天神社」と書かれている場合が多いです。一般には「お初天神」の方が知られていると思います。
御祭神は主祭神が少彦名大神(スクナビコナ)で、大己貴大神(オオナムチ、大国主)、天照皇大神(アマテラス)、豊受姫大神(トヨウケ)、菅原道真の合わせて5柱です。
由緒は
社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥3年(850)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、曽根崎の地名はこの御神名より起こる。
平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。
昌泰4年(901)、菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、境内の草木露深ければ
「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば」
と詠ざられ、菅公太宰府にて他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より「露ノ天神社」と称する。(社名の由来その他諸説あり)
元禄16年(1703)4月7日堂島新地天満屋抱えの「お初」と内本町醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。
以後上演の都度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙って当社に参詣「お初天神」と通称される所以である。
本殿右側にも社殿があって、「水天宮」と「金刀比羅宮」でした。御祭神は天乃御中主大神(アメノミナカヌシ)、安徳天皇、大物主大神(オオモノヌシ、大国主の和魂)、崇徳天皇、住吉大神他二神とのことです。他二神が気になりますが、金刀比羅宮はオオモノヌシですが、香川の金刀比羅宮は崇徳天皇も祀られています。また、久留米の水天宮はアメノミナカヌと安徳天皇の他に平徳子(建礼門院)と平時子(壇ノ浦の戦いで平家が敗れた際に安徳天皇を抱いて自害した)が祀られていますので、平徳子と平時子でしょうか?
当 水天宮は寛政9年(1797)6月 大阪 中之島 久留米藩蔵屋敷内 に祀られ、藩主 有馬公殊に尊崇し給いしものなり。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上せられ、御神霊は 丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀せられしが、丸亀藩蔵屋敷も上地となり、共に高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷し奉り、後、堂島中二丁目に遷座せらる。
明治42年(1909)「北の大火」の際、該社も被災し、当地に 露天神社の境内社として斎祀せらるに至る。
明治天皇御降誕の砌、孝明天皇其の御安産を御祈誓あそばされ、無事御降誕の後、当水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納ありしと伝える。
尚、東京水天宮は文政元年(1818)11月に御鎮座せられしものにて、当社はそれより21年以前に祀られたり。
左側には、玉津稲荷神社があります。そのそばに由緒にもありました「曽根崎心中」の「お初」と「徳兵衛」の像があり、「恋人の聖地」に指定されています。

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