昨日の日記で「継体天皇」の話をしましたが、先日、継体天皇が即位した「樟葉宮」に行ってきました。
場所は京阪の樟葉駅から北東方向です。近くまでバスに乗ったのですが、降りたバス停は京都府八幡市でした。スマホの地図を頼りに歩いたのですが細い道があって、「鏡伝道」とありました。この道の北側は京都府八幡市、南側は大阪府枚方市になります。南側には草木がボウボウの丘がありました。さらに進んでいくと入口があってそこには鳥居がありました。そこを進んでいくと「此付近継體天皇楠葉宮址」の石碑と小さな神社があって、「末社 貴船神社」とあって、祭神は当然高龗神なのですが、もう一柱が継体天皇でした。
案内板には
武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹王は、507年楠葉で即位されたとされます。このとき王の知己であった河内馬飼首荒籠が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部の大きな貢献があったと考えられます。
継体天皇は、5年後に山背国筒城(京田辺市付近)、12年後に弟国(長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。以上は、「日本書記」によりますが、「古事記」は、樟葉宮以降については何も記していません。
樟葉宮跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社のある小丘のあたりです。
なお、関白左大臣一条実経(1223〜84)は、次の歌を詠んでいます。
くもらじな ますみの鏡 かげそふる くずはの宮の 春の夜の月(続古今和歌集)
「末社」ということは本社があるはずなので、近くを歩いていると「交野天神社」がありました。鳥居に入る左側には「稲荷神社」がありました。鳥居をくぐって左に曲がると拝殿がありました。交野天神社の主祭神は第49代天皇の光仁天皇で、天兒屋根命(アメノコヤネ)と菅原道真が合祀されています。
桓武天皇は、延暦6年(787)、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇を設けて、父光仁天皇を天神として祀りました。これは、中国の皇帝が毎年冬至に、都の南に天壇を設けて、天帝を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれます。
交野天神社本殿は、一間社流造、桧皮葺で、鎌倉時代の嘉禎4年(1238)、室町時代の応永8年(1401)に修理されました。全体の概観は、雄大な手法で鎌倉時代の様式を残し、蛙股等の彫刻は、繊細で美しいものが多く、室町時代初期の特色を備えています。末社八幡神社本殿は、造営年代は天神社と同じですが、小規模で簡素な造りになっています。構造や形状は天神社に等しく、向拝の蛙股や欄間の透彫にみるべきものがあります。
ともに昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されました。
桓武天皇は鷹狩りのために交野によく行幸したのを聞いたことがありますが、そういうこともあって建てられたのでしょうね。末社の八幡神社とありますが、拝殿からのぞいてみると社殿が2宇あって、左側が交野天神社、右側が八幡神社です。本殿の右側には末社の大神社(おおかみやしろ)があり、祭神は天照大神です。
神社の南に「市民の森」があるのですが、池があって「鏡伝池」といいます。鏡伝池は古来観月の名所であり、鷹狩りのあと、鷹の姿をこの地水に映すのが慣わしだったそうです。
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