今日は嵐山角倉町集会所の和楽館での前衆議院議員の北神圭朗さんの勉強会に行ってきました。
前回から政治の話から古典文学の話になっているのですが、「源氏物語と大和魂」という題でした。
源氏物語というと私は光源氏が出てくる恋愛小説のようなものというイメージしかありませんが、昨年洛西ニュータウンで開催された「西山文化を語る会」で大原野での鷹狩りという場面があることを知りましたが、嵯峨界隈もよく出てくるそうです。「やまとごころ」や「やまとだましい」というと勇ましい男の姿を想像しますが、昔は中国が日本より抜きんでていて日本は文字も発達していなかった時もありましたから、男は漢文や中国語を勉強していたそうです。それに対し、女性は日本の人間の魂を「やまとごころ」や「やまとだましい」としたそうです。
政治とのかかわりですが、外国人労働者を受け入れることが決まりましたが、そもそも日本の国力が衰えてきていて、今までだと日本だけで商売が出来ていたものがそうでなくなると、逆に日本人が外国へ出て行くことになり、今まで以上に異質なものと触れ合わなければならなくなります。その際に「日本人とは何か?」ということを考えておかないと日本が日本で無くなってしまうことにもなりかねません。韓国の場合だと人口が日本の半分でもともと韓国だけで勝負するのは無理で世界と勝負しなくてはならない事情があることもおっしゃっていました。
そして、平安時代の天皇観についてもおっしゃっておられて、光源氏は桐壷帝の第二皇子として生まれるとありますが、桐壷帝(天皇)は架空の人物ですし、朱雀帝や冷泉帝は実在しましたがこれも架空の人物だそうです。今の右翼であれば「けしからん!」と言いそうです。そして明治時代は源氏物語はバカにされていたそうですが、イギリス人が英訳していて文章を正宗白鳥が読んで感動したことから、与謝野晶子や谷崎潤一郎などが現在語訳をしたそうです。
日本では本来女性が積極的で、古事記においても天の御柱では先にイザナミから誘ったためにヒルコが生まれたと書かれています。中国は男社会なので、中国の考え方が日本に入っていって日本も男社会となったのではないかとのことでした。「憲法9条」は外国では考えられないものですが、神話のころからある武力で抑えるものではないという考え方からすれば思想的には日本人には合った考え方かもしれないし、中国や朝鮮を叩き潰すといった右翼の考え方は本来外国の考え方であると指摘されていました、
参加者は北神さんを入れて8人でしたが、それだけにいろいろ自分の意見を伝えることが出来るのは良いと思います。最後に北神さんから「源氏物語の世界」というサイトを紹介して頂きました。これは左に「原文」、中に「逐語訳」、右に「与謝野晶子の訳」が並べられています。原文を読むとすぐに挫折するでしょうが、一度現代語訳を読んでみて欲しいと思います。
http://www.genji-monogatari.net/
次回は3月2日(土)で、天皇の話をされる予定です。
おまけ
この勉強会は弁当付きで、昼食を食べ、天気も良く帰るのももったいないので、紫式部の墓に行ってきました。場所は北大路堀川の南にあります。墓の逆方向には「紫式部顕彰碑」がありました。
紫式部は、藤原為時を父として天延元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。 祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼児より学芸に親しみ、頴脱したその才能は夙に認められていた。長保元年 (999)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子(かたこ)を産んだが、同3年(1001)、不幸にも夫を喪った。
寛弘3年(1006)頃、内覧左大臣・藤原道長の長女で一条天皇の中宮として時めいていた彰子に仕え、候名を 父の官名に因んで式部と称した。式部は侍講として中宮に漢文学を教授する傍ら、「源氏物語」の執筆に励み、寛弘6年(1009)頃、こ の浩翰な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
寛弘7年(1010)頃には、日本思想史の上で希有な虚無的人生観を こめた「紫式部日記」を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕え、また「紫式部集」を自選した「源氏物語」は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
没年については、長源4年(1031)とみなす説が有力である。「河海抄」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院 の塔頭の白毫院(びゃくごういん)の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所伝には信憑性が多い。
「源氏物語」は、完成後、9世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、「源氏物語」は、続々と各国語に翻訳された。1964年、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の1人に選んだ。
なお、紫式部の居宅は堤第と言い、平安京東郊の中河に所在した。すなわち廬山寺のある上京区北之邊町(梨木神社の東、府立医大の西)のあたりである。
また、一人娘の賢子(かたこ)は、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙せられた。11世紀の勝れた閨秀歌人の大貳三位とは、賢子のことである。
なお、紫式部の墓の右には小野篁の墓がありました。紫式部は小野篁の150年ほど後の人なのでなぜ2人の墓が隣り合っているのかはわかりませんでした。
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