昨日の昼間、キャンパスプラザ京都での「京都コンシェルタウンミーティング」に行ってきました。
今回の講師は、二宮金次郎(尊徳)の昆孫の中桐万里子さんでした。昆孫とは何かですが、子・孫・曽孫・玄孫いわゆる「やしゃご」までは知っている人もいるかと思うのですが、その後、来孫・昆孫となり、すなわち二宮尊徳の6代後の子孫ということになります。私は5年ほど前に小田原の「尊徳記念館」に行ったことがあって、この話には興味がありました。
二宮尊徳の時代、貧しい農村がたくさんあったのですが、子どものために再建した農村は600以上あるそうです。貧しい農村はまず村人の心が疲弊しているので、「心の田んぼ」すなわち心を復活させてから田畑を復活させたそうです。二宮尊徳の銅像を見ると片足が一歩前に出ていて、それは「前に一歩を忘れるな」との意味だそうです。
当時の小田原は富士山の噴火の影響や冷夏で米が不作だったそうです。ならばそういった場所に適した作物を植えようということで、「生かし方」を考えたそうです。森にはいろんな木があって、大きく育った木もあれば育ちの悪い「めばった樹」もあります。しかし林業のプロはめばった樹を間引かないそうです。それは育ちが悪かったのは条件が悪かったのが原因だが決して死んではいないということです。そしてそういう木は年輪の密度が濃いものになり根が深く張って高価で取引されるそうです。これが狩猟型の外国であれば弱肉強食で、他との競争で一番でないものは切り捨てられます。日本は「一番」ではなく「一流」を、「競争」ではなく「協働」と言われていましたがその通りだと思います。以前にも言いましたが、私はある私立中学を受験して一人で合格発表を見に行って不合格だったのですが、隣にいた親子が「やった」と喜んでいるのを見て、駅まで泣いて帰ったことがありました。マスコミは合格した者だけで不合格だった人への配慮は全くありませんし、そもそもネット社会の今、こんな残酷な公開ショーはやめろと言っているところです。
人を見る上でも悪いところを見る減点法ではなく、良いところを見る加点法にすべきだとのことでした。宝は小さなものの中にあって、「よく見る」ことが大切です。そして慣れが問題です。見て知っているつもりだけの場合があります。まずは知る、よく見ることが大切で、それは悪でも善でも存在している事実を見ること、そして一歩踏み出して行動しあきらめない、それが徳に報いる「報徳」となるとのことでした。
そして、「無欲」が最も良くないと言われていました。「無欲」と言っていても人の作った食べものを食べ、衣服を着るということは決して無欲ではないとのことでした。「私欲」は「無欲」より悪くない、なぜならそのために働くからですが、結局自分だけしか幸せにならない、結局「大欲」が必要で、それが自分のためプラスアルファが人のためになるとのことでした。これは「欲」というと悪く聞こえますが「志」かなと思いました。
質問タイムでまずあったのは、「なぜこの講演をされたのか?」ということでした。実は私もそのように思いました。これは主催者側に問題があると思うのですが、中桐さんのプロフィールが「二宮尊徳の昆孫」としか案内がなく、本業は子育て支援をされているというのはこの時に知りました。まず、司会者が中桐さんのプロフィールを言うべきですし、案内にも今回の表題が全くありませんでした。そして、「緊張せずに話すには」という質問に対して「聴衆を見ずに話す」と言われていて、内容やスライドは非常にわかりやすく神道の心を伝えるの小坂先生の講話とも被る部分もあって良かったのですが、少し早口で参加者の反応を見ずに話されていたのは講演中にも感じました。
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