京阪本線で最も南の京都市の駅は淀駅です。この界隈は昔は久世郡淀町といいましたが、昭和32年(1957)に京都市伏見区に編入されました。
「淀」と言って連想されるのは、淀駅の東にある京都競馬場だと思います。しかし、西側には淀城の跡があります。
淀城跡に隣接して與杼神社(よどじんじゃ)があります。
豊玉姫命(トヨタマヒメ)、高皇産霊神(タカミムスビ)、速秋津比売命(ハヤアキツヒメ)を祀り、古くは、淀姫社、又は水垂社とも呼ばれていた。
社伝によれば、応和年間(961〜964)僧千観内供が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)淀川改修工事のためここに移された。
境内には、本殿、拝殿、神輿庫をはじめ日大臣社、長姫社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。
毎年11月に行われる例祭は「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑わう。
トヨタマヒメは神武天皇の祖母に当たります。タカミムスビは造化三神の一神ですし、ハヤアキツヒメはイザナキとイザナミの間に生まれた神様ですので、関連性が無いように思います。淀大明神というものですが、佐賀県の旧川上村(現佐賀市)に與止日女神社(よどひめじんじゃ)というのがあって、そこから勧請されたのでしょうね。当初祀られたという「水垂町」は淀川の対岸にあります。
本殿の左にそれぞれ手前に鳥居が建っている社が三社あって、右から「長姫弁財天」、「豊丸大明神」、「川上大明神」とありました。
その左には「稲葉神社」がありました。御祭神は稲葉正成です。「稲葉神社の祭神と淀藩について」という説明板がありました。
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。
元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。
正成は豊臣秀吉 に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。
秀吉の没後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌につかえた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、二万石を領したが寛永5年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、五代目の正知の時で享保8年(1723)下総国(千葉県)佐倉より十万二千石で入封した。
その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年間にわたり淀藩主であった。
そばに石垣があるのですが、淀城跡です。石垣を上ってみると17.53mと書かれた「三等三角点」がありました。
「淀城の由来」という案内板によると
徳川2代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永10年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室の基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。
最後にもありますが、この淀城は淀君の淀城とは関係がありません。
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