一昨日の東條英利さんのセミナーで「八幡さん」についてありまして、日記に書いた通り、あまり八幡神社は好きじゃないのですが、好きじゃないけど近くの八幡神社に行こうと思いました。ところが、大きな神社の摂社、末社には多いと思うのですが、京都市内の八幡神社というと先日の若宮八幡宮を除けば2社ぐらいしか思い浮かびませんでした。今日は京都市内ではもっとも有名な八幡神社ではないかと思う「三宅八幡宮」に行ってきました。
三宅八幡宮が有名なのはおそらく叡山電鉄本線に「三宅八幡」という駅があるからだと思います。しかし、それよりも近いのは鞍馬線の「八幡前」駅です。また、京都バスにも「八幡前」というバス停があります。今日はバスを乗り継ぐので市バスの一日乗車券で行ったのですが、その場合注意しなければいけないのは均一区間は1つ手前の「岩倉三宅町」であり、1つ越えた「八幡前」まで一日乗車券で行くと追加で160円取られます。「岩倉三宅町」からも歩いて5分ぐらいで行けるので、そのようにしました。
表参道の一の鳥居、二の鳥居をくぐった左には「大楠公の像」というのがありました。「大楠公」こと楠木正成は、天皇陛下、すなわち日本という国を護るためにの為に一生を捧げた武将で、戦前はハガキの印面に描かれていたのですが、それが気に入らないGHQはそのハガキの使用を禁止にし、教科書でも戦後取り上げ方が大きく変わりました。
東條先生の話でも八幡神社と鳩の話がありましたが、三の鳥居の左右には「狛鳩」がありました。台座には「信鳩組」とありました。
中に入っても鳩がいて「鳩のエサ」が50円で売られていました。
由緒ですが、
この辺りは古くは小野郷と呼ばれ、小野氏の居住する地域であった。
社伝によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として筑紫を過ぎる時、病に罹ったので宇佐八幡に祈願をこめたところ、直ちに平癒したので、帰朝後、宇佐八幡を勧請したのがこの社の起原であるといわれる。祭神は応神天皇である。俗に「虫八幡」といい、子供の疳の虫除けと神として幕末期より崇敬を集めており、特に9月15日に行われる例祭には子供連れの参詣者で大いに賑わう。
東方には、慶長年間、石棺及び墓誌(国宝)が発掘された小野毛人の墓がある。墓誌には天武天皇5年(677)の年号が銘刻されているので名高い。
由緒の通り、子どもの守り神として知られており、本殿の前にはよだれかけの絵馬が奉納されていました。帰りには「鳩みくじ」が売られていたので買いました。
ところで、三の鳥居を入った右側に大小2つの石碑がありました。「韓国合併奉告祭碑」と刻印されていました。説明が無かったので、家に帰ってネットで調べてみると本文の意味が書かれていたものがありました。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa233_abst.html
明治43年(1910)9月29日に韓国合併の詔勅が発せられた。そこで山城国愛宕郡三宅八幡神社の神職と同社氏子である高野の住民は神社の祭神に報告する祭礼を行い,記念碑を建てて後世に伝えようと計画し,兼田愛宕郡長を介し私(湯本文彦氏)が碑文を依頼された。
そもそもわが国と韓国との関係は古く神代に始まる。その後,新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)がわが国に帰化し,任那も来朝した。神功皇后が三韓に遠征し日本の勢力を広げたこともあった。その後時代も移り変わり,豊臣秀吉が侵攻し武勇を大いに振るった。
明治維新以後,わが国は韓国と国交を結び扶助し保護したが,韓国にはさまざまな独立をおびやかす危機がせまり,ついに韓国皇帝は大勢を観て国を日本に合併することを天皇に要請した。天皇はアジアの平和と韓国の安定のためこれを許可した。ここに韓国全土はわが国の一部になったわけである。
歴史上,国土を拡大し豊かにするには必ず戦争に訴え,多大な犠牲を払ったものである。いま韓国の合併は正義に基づき平和に行われた。実に見事なことではないか。三宅八幡神社は応神天皇を祭神とする。応神天皇は韓国で偉勲をあげた方であり,韓国合併を奉告して祝賀するのは当然のことである。そのためこの碑文を書き石に刻む次第である。たとい石は亡びてもその栄光は万世にわたり不朽である。
余談ですが、日韓併合は明治43年8月29日なので、間違いなのか実際の詔勅は9月29日だったのかはわかりません。この日の本文を書いた人はもちろん亡くなられていますが、現在の日本についてどう思っているのでしょうか?私が実際に見た石碑はそうではなかったのですが、ネットにあった石碑は赤く汚れた跡がありました。三条京阪の高山彦九郎の像でもありましたが、こういう歴史が気に入らなくて消し去りたい者がペンキでも掛けたのでしょうか。
その右にも石碑があって
戦利兵器奉納の記
是れ明治三十七八年役(日露戦争)戦利品の一にして、我が勇武なる軍人の熱血を濺ぎ大捷を得たる記念物なり。茲に謹んで之を献じ、以て報賽の微衷を表し、尚
皇運の隆盛と国勢の発揚を祈る。
明治40年3月 陸軍大臣 寺内正毅
と刻印されていて、砲弾のようなものが4つ埋め込まれていました。
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