先日、京都御苑に行ったのですが、京都御苑内に神社があります。
間ノ町口から入り右側に池があるのですが、そこに「厳島神社」があります。厳島神社ですので、御祭神は田心姫命(タゴリヒメ)、湍津姫命(タギツヒメ)、市杵島姫命(イチキシマヒメ)の宗像三女神です。さらに祇園女御も合祀されています。
由緒ですが
一、当社は往昔 平相國清盛公 安藝の國佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の國菟原郡兵庫築島(神戸市兵庫区永沢町)に一社を設けてこの大神を歓請し給い鎮祭されたのであり 後故あって側らに清盛公の母儀 祇園女御をも合祀されました 後世年を経て この九絛家邸内 拾翠池の嶋中に移転遷座されたのであります(濫觴年代等は天明八年京都大火の砌 旧地番悉く焼亡して詳ではありません) この地 旧公爵九絛家の邸内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました 又古くより家業繁栄 家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されているところであります
一、神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名であり詳細は本殿横の由来書をご覧ください
そこで本殿横の由来書を見たところ、「破風形の鳥居」とあって、
社前の鳥居(重要美術品)は 平清盛公兵庫厳島の同神社に建てられたもので第104代後柏原天皇の御代永正の足利家の管領細川武蔵守高國 有名なる京都の彫刻師後藤氏の邸を掠奪して住居として居たが 大永元年3月(1521)足利12代将軍義晴公 播磨國より上洛して暫くこの邸に在留際 取り寄せて 庭前に建て置かれしところ 足利市滅亡の後 徳川家康公 後藤氏に所領を下賜の沙汰あり 望に任せて後藤氏を右邸に復住せしめたるが 慶長9年(1604)徳川家康公此邸に立ち寄らせ給ひし折り 御覧あり 該鳥居の古稚なる形を深く愛玩し給ひし事ありてより 以来 京都所司代の交代後とに必ず 巡見すべき物件となり 明和8年3月(1771)後藤法橋玄家の代に 内大臣 九絛道前公(芳盛光院殿)鎮守の厳島神社由来有るにより當時所司代 阿部飛騨守正元(武蔵國鷹忍城主)を以て幕府に懇望し給い 當神社に復帰す 之は最も世に類例なき姿にして 即ち破風形の鳥居を口し 昭和13年6月(1938)文部省より重要美術品に指定される
宗像三女神のイチキシマヒメは弁財天の元となった神様ですが、社殿にも弁財天の絵が飾られていました。
すぐそばに池があって、そこでは浴衣を着た背の高いいかにもアルヨぽい若い女2人が立っていて、ラテン系ぽいカメラマンが女を撮影してました。カメラマンは女2人と英語で話をしていました。
間ノ町口に戻ってまっすぐ進むと「宗像神社」があります。宗像神社なのでここも御祭神は宗像三女神です。
本社は宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神(交通・運送の神)、また海の神(出産、生産、産業・文化の神)として信仰されている。
この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。
社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されたと伝えられる。その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間(1855〜1860)に再建されたものである。
明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にあったが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残った。境内は樹齢600年といわれる京都御苑最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿の左近の桜を拝領したものである。また「葉書」の語源となったとも言われる「多羅葉」の樹が社殿正面にある。境内社としては花山稲荷神社、京都観光神社、少将井神社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮がある。
鳥居をくぐるとすぐ右に「花山稲荷神社」があります。ところが、台風の影響か中に入れなくなっていました。
左側には「京都観光神社」があります。御祭神は観光神社らしく旅行の神様である猿田彦大神(サルタヒコ)です。
昭和の代になって、京都を訪れる観光客が急増いたして参りました。観光客を迎える全ての観光業者が一丸となって、観光客の無事息災を記念し、併せて業界の発展のため、道案内の神をお迎えして、昭和44年(1969)11月1日に建立されました。、毎年春と秋に大祭があります。全国でも珍しい観光神社です。
さらに進むと本殿があります。その左に境内社があり、左から金刀比羅宮、繁栄稲荷社、少将井神社です。
金刀比羅宮ですが、御祭神は大物主神(オオモノヌシ)と崇徳天皇です。
文化3年10月10日、讃岐、丸亀藩主、京極能登守、常に崇敬厚き象頭山金刀比羅宮を京都に祀り、旅の都にて、国や藩民の太平無事を日夜祈願されたとのことです。旅行の安全、海産に関係ある方々の守り神として崇敬されています。
繁栄稲荷社の御祭神は「命婦稲荷神」。祇園に命婦稲荷神社がありますので、そこから勧請したのでしょうか?
少将井神社の御祭神は櫛稲田姫命(クシナダヒメ)。スサノオの后神です。少将井は以前書いたことがありますが、ここから南の京都新聞社の裏側あたりにあったようです。
さらに北へ行くと「白雲神社」があります。
御祭神は妙音弁財天と称え市杵島姫命を祀る
琵琶を家職とする西園寺家に楽神として伝えられ太政大臣西園寺公経卿北山第(京都衣笠大北山の西北、現在の金閣寺がその旧址である)の造営にあたり妙音堂を第一に建立、元仁元年(1224)12月別当成就心院に回向せしめ皇后邦子内親王(安嘉門院)臨御せられたのを奉斎の始めとする。 増鏡、中務内侍日記、太平記等に当時の風雅なたたずまいがうかがわれるがその後同家の盛衰に伴い変遷あり 近古には赤八幡京極寺に鎮座されたと伝えられる。
明和6年(1769)前内大臣西園寺公晃卿、前右大臣西園寺賞季卿勅許を賜り同家邸内(当地)に妙音堂を再興、天保11年(1840)安政4年(1857)の社殿修築に際しては禁中各御所より御寄付を賜り禁裏御祈祷所と定められた。 明治から昭和にかけて首相あるいは元老として近代日本の礎を築いた西園寺公望卿が家塾「立命館」を開設したのもこの地である。
明治11年(1878)神仏混淆の作法を神式に改め社号を白雲神社とする。
御神徳あらたかなる霊社として崇敬者は京都府下は元より近畿一円にあまねく。
由緒にある通り、一見神社というよりは寺のように見えます。ちなみに西園寺公望は京都府出身の内閣総理大臣3人のうちの1人です(残る2人は東久邇宮稔彦王と芦田均)。
この神社にも弁財天の絵が飾られていました。
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