1週間前の土曜日の話です。
小坂先生の八百万の神講座に行ったのですが、会場の京都中央学院の北隣がアパホテル、さらに北隣には「不動堂明王院」がありました。
本寺の開基は今から凡そ一千余年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて京都洛南に東寺を賜ったとき、東寺の鬼門(東北)にあるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊なる石にみずから彫り刻んだものでした。大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、更にこれを地中の井戸ふかくに安置したのです。
寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西洞院に東西に2町(約220米)南北に4町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取りださせようとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を病み恐れをなして終に果せなかったといいます。そこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。
下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。その後、江戸時代に入って明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。
建立当初、本寺は宇多法皇が仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場をして天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。
本寺の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、古今誰ひとりとして直々に拝したことがなく、ために御前立として同じく不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。
尚、不動尊の右に弘法大師像、左に修験道とゆかりの歴史を物語る役行者像が安置されています。
御本尊は今の井戸の底に安置されているのですね。本堂には「新選組 まぼろしの屯所」という提灯がありました。
不動堂明王院のさらに北隣、塩小路通の南には「道祖神社」というのがありました。御祭神は猿田彦命(サルタヒコ)と天鈿女命(アメノウズメ)の2柱です。サルタヒコは天孫降臨の時に降りてきたニニギの道案内をした神で、アメノウズメは葦原中国に着いた後、サルタヒコを送り届けるようニニギに命じられ、この2柱は夫婦神とされています。
石鳥居の左側に男女の石像があり、夫婦和合の信仰があります。
さて、先ほどの不動堂明王院にあった提灯の「新選組 まぼろしの屯所」ですが、この付近に新選組の屯所があったようです。
1筋東の西洞院通に旅館のハトヤ瑞鳳閣があるのですが、その前に「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」と刻まれた石標がありました。
当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全体を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤の甥で隊士だった宮川信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。 歴史地理史学者 中村武生
そして、逆に不動堂明王院のある道の1筋西は堀川通ですが。西側にリーガロイヤル京都があります。その入口には石碑が建っていて、ダンダラ模様に「誠」の文字と
「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心(すめらみこころ) 新選組局長 近藤勇」と刻まれていました。
説明板があって、
この付近 新選組 不動堂村屯所跡
新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、近藤勇らが幕府直参になった五日後の慶応3年(1867)6月15日であった。移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担することになった。
屯所の広さは1万平方メートル。表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6ヵ月間、屯所として使用した。
2003.6.15 霊山歴史館 木村幸比古 識
1万平方メートルもありながら、わずか6か月間で確かな証拠も残っていないというのは、「まぼろしの屯所」ですね。
ブログランキングに登録しました。下記のクリックをお願いします。
人気blogランキングへ

0