先日、堀川今出川の白峯神宮に行った後、烏丸方面へ東に歩いて行きました。新町通を南に下がって京都府の社会保険労務士会の南に「霊光殿天満宮」という神社がありました。
名前からしてパワースポットという感じがします。御祭神は当然菅原道真ですが、なぜか徳川家康も祀られています。
鳥居の扁額ですが、「天下無敵必勝利運」という縁起の良さそうなものでした。
由緒書きがあったのですが、
霊光殿天満宮ト申シ奉ル
後一條院天皇ノ御宇天神六世ノ神孫贈從一位菅原義郷天皇ノ勅ヲ奉シ天神ノ御領地河内若江郡ニ神殿御建造アラセ給ヒテ御崇敬アリ尓来神威益々盛ナルニ至り御神告ニヨリ今ノ京ニ遷シ奉リ後宇多天皇ノ御宇蒙古ノ賊襲来ス 天皇則チ当社ニ於夷賊退治ノ祭事アリ神威嚇然トシテ忽賊船悉ク亡滅ス叡感アラセ給天下無敵必勝利運ノ御震翰ノ御額ヲ御進納アリ今尚宝存ス然カノミナラズ御寄附ノ神領若干アリ歴朝ノ御崇敬ハ至レリ應仁ノ大乱ニ御殿并ニ御神領荒敗ス徳川家康公当社ニ参拝アリ天下太平ノ祈願アリ又寄附ノモノアリ其後屡々火災アリテ朝廷ヨリ内侍所御進納アリ今尚御仮殿タルハ実ニ恐粛ニ堪ヘズ有志ノ甘心セザラン哉神徳之廣大ナルハ他社ノ比ニ非ズ
其ノ詳別由来記ニ有
訳がわからん(笑)。簡単に訳していくと、後一条天皇の時代(1016-36)、菅原道真の6世の孫にあたる菅原義郷が天皇の勅命で河内若江郡(今の大阪府東大阪市、八尾市のあたり)に神殿を建造した。その後御神告により京に遷した。後宇多天皇の時代(1274-87)、蒙古が襲来した。天皇が当社で夷賊退治の祭事をすると蒙古の船はことごとく沈んでいったので天皇から「天下無敵必勝利運」の扁額が御進納された。応仁の乱では御殿と神領は荒廃した。徳川家康が天下泰平の祈願をして寄付もあった。その後何度か火災があって朝廷からは内侍所の御進納があった。
武者小路通を東へ歩くと「福長神社」がありました。縁起の良さそうな神社です。
本社は福井神、綱長井神、稲荷神を祭神として祀る。社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから、福長稲荷とも呼ばれた。
福井神と綱長井神は、平安京大内裏の神祇官西院(現在の大宮竹屋町辺り)に祀られていた延喜式内社、宮中神の座摩坐祭神五座(生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神)のうちの二座である。
現在の地に遷された経緯については、社伝によると天正年間、豊臣秀吉の聚楽第造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正二年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)にはすでに現在地に福長神社が描かれている。
天明の大火(1788)で焼失した後は、小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。
井戸の神ということですが、手水舎に行くとポンプがありました。これは井戸水だなと思って上下させたのですが、水が出てきません。水無しかと思って左側を見ると蛇口があって蛇口をひねるとチョロチョロと水盤に流れてきました。
ブログランキングに登録しました。下記のクリックをお願いします。
人気blogランキングへ

0