一昨日の日記で縁結びの神である「地主神社」を紹介しましたので、今度は縁切りに関連のある神社です。
清水寺から東大路通へ降りて、北へ行くと「安井金比羅宮」があって、石鳥居には「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」とありました。
祭神として崇徳天皇、大物主神、源頼政の三神を祀る。
社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275〜1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。その後、観勝寺は応仁の乱の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。
本殿東の江馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢等の作品も含まれている。
また、境内にある「久志塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月の第4月曜日に櫛祭が行われる。
安井金毘羅宮で有名なのは「縁切り縁結び碑」です。願い事が書かれた「形代(身代わりのお札)」が碑が見えなくなるほど貼られています。
北側に行くと、「崇徳天皇御廊」というのがあります。
崇徳上皇(75代)は、平安時代の末、保元の乱(1156)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意のごとくならず憤怒の御姿のまま長寛2年(1164)夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。
上皇の寵愛あつかった阿波内侍は、御遺髪を請い受けて、この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊を努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の処のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。
なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され、今日に至っている。
以前にも言ったことがあるのですが、歴代天皇の御陵は今124基ありますが、その内118基は京都府、大阪府、奈良県にあります。あとは東京都に大正、昭和天皇の2基がありますが、それ以外の滋賀県、兵庫県、香川県、山口県にある天皇陵の天皇は悲運の最期を遂げている天皇です。
昨年、坂出市にある崇徳天皇陵に1時間以上歩いて行きましたが、崇徳天皇陵の正式名称は「白峯陵」、近くにあった寺は「白峯寺」でした。
京都には「白峯神宮」というのが堀川今出川の東側にありますので、行ってみました。
当神宮は崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。この地は蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られ球技愛好者に崇敬されている。他に「伴緒社」「潜龍社」などの境内社があり、「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定されている。
白峯神宮の創建は保元の乱から700年以上建っていたのですが、天災や紛争、疫病が起こると「崇徳天皇の祟り」と考えられていたようです。また、合祀された淳仁天皇も天皇陵が兵庫県の淡路島ですので、合祀されたのは祟りを恐れたからでしょうね。
しかし、この神社で有名なのは蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡ということもあり、サッカーなど球技の神様としてです。拝殿にもボールや色紙が置かれていました。木製の絵馬に「World Cup Japan 2002 京都でワールドカップを!」というのがありました。京都は候補地だったのですが、残念ながら韓国の横やりで外されてしまいました。
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