先週木曜日に興福寺に行ってから京終さろんの開催地であるれんじょう寺まで歩きました。
猿沢池の近くに神社がありました。鳥居より中には入れなかったのですが、実際に参拝するとすれば裏に回らなければならないように建てられていました。
ここは「采女神社(うねめじんじゃ)」といい、御祭神は「采女命」という聞いたことの無い神様です。
御由緒によると
奈良時代天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢の池に身を投げこの霊を慰める為祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭当日は采女神社本殿にて祭典が執行され中秋の名月の月明りが猿沢の池に映る頃龍頭船に花扇を移し鷁首船と共に、二艘の船は幽玄な雅楽の調べの中猿沢の池を巡る
だから鳥居方向と逆に向いているのですね。
南へ歩き右へ曲がるとに小さな神社があって通り過ぎようとしたのですが、御祭神が天之御中主神であり、意外に少ないアメノミナカヌシということで中に入りました。
「鎮宅霊符神社」という名前でした。
説明書きには
永久5年(1117)に社壇を建立し、「元要記」に「南都四箇陰陽師之に勤在す」とあり、陰陽師の鎮守として祀られた。
御祭神 天之御中主神
「古事記」では、高天原に出現した三神の中で最初に現れた神であり、不動の天帝 北極星の神霊であろうとされている。
宇宙創造神、又神仏習合説 妙見信仰の神
御神徳は、天下泰平 国家安穏 五穀豊穣 災禍除き福運を呼ぶ。
また、境内社は住吉神社で、住吉三神を祀っている。ユーモラスな顔つきの狛犬は、慶応3年(1867)の銘がある。
ここの地名は「陰陽町」というのですが、昔、陰陽師が住んでいたそうです。陰陽師にゆかりのあることもあってかアメノミナカヌシを「北極星」の心霊としています。
説明書きにも書かれていた狛犬ですが、目が丸く笑っているような感じでした。
南へ歩くと「徳融寺」という寺がありました。
当寺はもと南都七大寺の一、元興寺 の境内にあり、観音堂とも別時念仏の道場であったとも伝えている。室町時代 、元興寺が土一揆で罹災したため本尊を現在地へ移し、天正18年(1590)融通念仏の檀家寺院として復活した。
本堂は寛文7年(1667 。県文)休岸上人 の再建。木造阿弥陀如来立像を祀る。頼朝公の妻北条政子 の念持仏であったという。
境内には毘沙門堂(寛永九年。市文)観音堂、地蔵堂、方丈、庫裡(慶長十六年。もと本堂)鐘楼等、時代別の堂宇が軒をつらね、観音堂本尊は平安初期作子安観音立像である。大和北部八十八ヶ所 四番札所で「願ひをばかけてぞむすぶ結肌帯たはやすくしも解かせ給ひぬ」の詠歌がある。幕末の頃、観音の子育て信仰にあやかって寺子屋 が開かれ、明治五年の学制で「魁化舎第三番小学」と改まり、のち西木辻八軒町に移って現在の奈良市立済美小学校 に至っている。
当寺は平城京 の外京 、六坊大路にあたり、藤原不比等 の孫、右大臣横佩(よこはぎ)豊成の宅跡とされる。折口信夫 の小説「死者の書」で知られた豊成の娘中将姫 は当地で育ち、少女時代継母にいじめられた「虚空塚」「雪責松」など受難のあとが随所に残されている。
観音堂裏に父子の石塔(鎌倉時代 )がある。戦国の世、梟雄松永弾正久秀が多聞城 の石垣を築くため、近郊の石塔を徴発した。右の石塔にも徴発の手が及んだので、当寺の一代で連歌師の心前上人が「曳残す花や秋咲く石の竹」と詠み、危うく難を逃れたという。
什物にも奈良時代 の木心乾漆仏断像はじめ貞享元(甲子)年当麻曼荼羅 、狩野永梢 ・勝山啄眼 筆花鳥山水襖絵五十面等があり、断像は仏像の内部構造を知る上で貴重な資料となっている。
なお、融通念仏宗 とは平安時代 の僧、良忍上人 の創唱で、自他の念仏が融通して、一遍の念仏にも億百万遍の功徳が籠ると説く教え。俗に「大念仏」といい、河内大和を中心として畿内に広がっている。
京終さろんの会場の寺のそばには「崇道天皇社」があります。以前行った時は門が閉まっていましたが、今回は入ることが出来ました。
御祭神は早良親王(追号崇道天皇)です。
当社は平城天皇大同元年(806)の創立にして、桓武天皇の皇弟・早良太子(光仁天皇・高野夫人の第二皇子)の霊を鎮め祀る。
天応元年(781)桓武天皇の皇太子となる。
延暦3年(784)都を平城京より長岡京に移し、天皇政事を太子に任せらる。
同4年(785)故ありて乙訓寺に幽閉され、後淡路島に配流途に崩御あらせらる遺骸を仁井の里に埋葬された。
国内に凶事続出親王の怨霊との声高まり、同17年(798)天皇遺骨を大和八嶋陵に迎え同19年(800)陵に於いて追尊の儀執行せらる。
平城天皇大同元年社を建立霊を慰められたのが当社の創立である。
崇道天皇である早良親王は桓武天皇の弟ですが、淡路島に配流された際に崩御され、その後疫病が起こって早良親王の祟りと考えられたため、崇道天皇が追号された後、桓武天皇の崩御後即位した子の平城天皇が神社を創立しました。崇道天皇は即位していないため125代の天皇の中には入っていません。
境内社として天満宮や稲荷社の他に祓戸社があり、御祭神は瀬織津姫神(セオリツヒメ)、速開都姫神(ハヤアキツヒメ)、気吸戸主神(イブキドヌシ)、速佐須良姫神(ハヤサスラヒメ)の「祓戸四神」と言われている神です。
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