今日11月22日は、広隆寺の太子殿で年に一度の聖徳太子立像が開扉されます。この日に合わせて妖怪堂の葛城さんによる聖徳太子に関するウォーキングツアーがあります。聖徳太子立像は以前一度見たことがありましたが、家からも近いのでウォーキングがてら参加しました。
今回、地下鉄の太秦天神川をスタートして蛇塚古墳までの道でしたが、このルートでの参加は3回目になります。
太秦天神川から西へ少し歩くと「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」に着きました。この名前を聞いても地元の人でもわからない人が多いと思います。通称「木嶋神社(このしまじんじゃ)」と言いますが、これだと地元の人はわかってもそれ以外の人でピンと来る人は少ないと思います。一番通りが良いのは嵐電の駅にもなっている「蚕ノ社(かいこのやしろ)」ですが、厳密に言いますと「蚕ノ社=木嶋神社」ではありません。
三条通沿いに一の鳥居があるのですが、鳥居の扁額には「木嶋神社」ではなく「蚕養神社」となっています。
ところで、「木嶋坐天照御魂神社」というと祀られているのは天照大神かと思うのですが、説明板に書かれている木嶋坐天照御魂神社の由緒を見ると、祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)他四柱(大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと))です。。
また、主祭神は天之御中主神なのですが、アメノミナカヌシというと天地開闢の際に高天原に最初に出現した神にも関わらず、その後のイザナキやイザナミ、アマテラスやスサノオに比べるとマイナーなイメージがあります。これは「古事記に学ぶ講話」でのパクリになりますが、アメノミナカヌシは現れてすぐに姿を消したとされ、人の「心」など見えないが重要なものの神とされています。ですから、アメノミナカヌシが祀られている神社は、木嶋神社以外には大阪のサムハラ神社や東京の水天宮といった、少しマイナーですがパワースポットと言われている神社が多いようです。
そして、「蚕ノ社」と言われる「蚕養神社(こかいじんじゃ)」は木嶋神社の境内社で、木嶋神社の向かって右側にあります。この地を治めていた渡来人の秦氏は養蚕、機織の技術に優れています。機織(はたおり)という言葉は秦氏から来ているとも言われています。
左側には三本足の鳥居があります。この鳥居についてはいろんな説がありますが、先ほどの由緒には「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教 約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている。」とあって、神社の由緒にキリスト教について触れられているのも珍しいと思います。
また、以前魔界ウォークに行った時に、ここの森を「元糺の森」、そして通常は水はありませんが、正月と土用の丑の日の2日間だけ水が張られるのを「元糺の池」と言います。下鴨神社では池に足を浸ける御手洗祭が有名ですが、木嶋神社でも行われており、以前土用の丑の日に開催された魔界ウォークに行った時には池に足を浸けました。
葛城さんからは蘇我氏の由来や聖徳太子、その子の山背大兄皇子と蘇我入鹿との関係、乙巳の変や藤原氏、法隆寺の建立、木島神社の三柱鳥居などについて興味深い話がありました。ただ、私はこの時代の歴史については疎いので勉強しないといけないと感じました。
その後、広隆寺に行きました。午後3時を回っており、お火焚きさんは終わっていました。正面の上宮王院太子殿に行き、1年で今日しか見られない聖徳太子立像を拝みました。本像には歴代の天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄色い袍が在位中着せられています。今上天皇の袍は今回が最後になるかもしれなかったのですが、譲位が再来年の3月か4月が有力になっていますので、もう1回見ることが出来そうです。それから、以前見たときはもっと明るい色のように感じたのですが、照明の関係か暗いように感じました。
広隆寺ですが、地元の私としては好きになれない寺です。というのは以前来た時に、太子殿の外観を撮影しているとオッサンが来て正面からの撮影禁止と言われて、その言い方も含めて「お前は何様だ」」と思うようなものでした。
「国宝第一号」の弥勒菩薩や秦河勝夫婦の像などがありました。広隆寺は「国宝第一号」の弥勒菩薩があるのでオッサンなどもお高くとまっていますが、これは半分インチキで、弥勒菩薩と同じ時に国宝してされたものは他にもたくさんあり、たまたまリストの1番目に載っていたのが広隆寺の弥勒菩薩だったということです。例えるならば、青木君が卒業式の総代になったと威張っているが、総代になったのはたまたま五十音順の名簿が1番だったからだけというようなものです(笑)。
それから、西側には広隆寺の本殿ともいえる桂宮院があって、法隆寺の夢殿と同じ八角形だそうですが、公開の予定は無いそうです。
最後に蛇塚古墳に行きました。床面積は日本で4番目の規模で、この一帯は秦氏が開発したものですが、首長クラスの墓ではないかと言われています。
古墳と言っても、私が子供の頃から巨大な岩しかなく、当時は周りにフェンスはありませんでしたので、岩に登った記憶があって、小学校で「蛇塚に登らない」という通達が出たりしていました(笑)。
岩の周りは草むらでしたが、今は整備されています。今回も鍵を貸していただいて石室の中に入りました。
ここで解散であれば家まで歩いて15分ですが、懇親会は帷子ノ辻駅から嵐電に乗って西院駅近くの前の会社にいたころには忘年会や懇親会で何度も行ったことのあるお好み焼屋でした。参加者ですが、私のような超地元の者から、このために新幹線で来たり今日は京都で1泊する人もいて、私としては何の気なしに通ったりしている広隆寺や蛇塚古墳に興味のある方が多いのだなと思いました。
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