明日朝に福井で用事があるので前泊なのですが、なぜか福井市内はホテルがほとんど満室だったので、近くの鯖江市のホテルに1泊しています。
今日はホテルにチェックインする前にどこか寄ってみようと思ったのですが、敦賀に越前国の一之宮である「氣比神宮(けひじんぐう)」があるので、行ってきました。
氣比神宮ですが、敦賀駅から歩いて20分ぐらいのところにあります。
敦賀駅前に銅像があって、「都怒我阿羅斯等像」とありました。
「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」ですが、日本書紀の巻第六垂仁天皇の条に、第11代垂仁天皇の時代、額に角のある人が ある船に乗り、越(越前や越後というように福井から新潟までのどこかと思われます)の国の笥飯(けひ)の浦に停泊しました。そこで、その地は角鹿(つぬか)と名付けられました。「お前はどこの国の人か。」と問われ、「大加羅(おおから(任那))国王の子で名前が都怒我阿羅斯等であるという内容で登場します。「角鹿」という地がなまって「敦賀」となったと言われています。
氣比神宮に到着したのですが、高さ11mの大鳥居があり、「日本三大鳥居」の一つとなっていて、あと2つは奈良の春日大社と広島の厳島神社だそうです。
ちょっと待て。先週おのころ島に行った時におのころ島神社の鳥居が「日本三大鳥居」の1つだったはずだぞ。しかもおのころ島神社の鳥居は高さ21.7mだったからおのころ島の勝ちやないか!
調べてみますと、春日大社、厳島神社、氣比神宮は「日本三大木造鳥居」だそうで、おのころ島神社の日記で書いた平安神宮、おのころ島神社、厳島神社は「日本三大大鳥居」だそうです(笑)。
ところが、氣比神宮の大鳥居ですが、現在保存修理工事中で、漆を塗り直す作業など昨年秋から今年の12月までかかるそうです。
大鳥居のある場所をくぐり、手水舎に行ってから左へ曲がると氣比j神宮の拝殿がありました。
氣比神宮ですが、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと、氣比大神)、あと本殿に祀られているのが、帶仲津彦命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)と息長帶姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、あと本殿周囲にある「四社の宮」に日本武命 (やまとたけるのみこと)、譽田別命(ほんだわけのみこと、應神天皇)、玉姫命(たまひめのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)が祀られています。
沿革として
主祭神氣比大神は、神代から此の地に鎮り給うた。大宝二年(702)勅に依り社殿の修営を行ない、仲哀天皇・神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿( 四社の宮 ) に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり、類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており、此の七座の神は一座ごとに官幣( 大社 ) の奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治28年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみでなく、日本有数の古名大社として通称「氣比さん」 の名で親しまれ、全国に幅広い信仰を集め、9月2日より15日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく、行幸啓も極めて多く戦後では昭和43年、畏くも天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和62年5月7日、昭和の大造営に依る
本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である式内摂社角鹿神社がある。
なお、拝殿には現在大鳥居の修復工事で降ろされている大鳥居の扁額が展示されていました。明治34年に加賀出身で北陸の5大北前船主にも数えられ、敦賀−ウラジオストックの定期航路の運航も行っていた大家七平(おおいえしちへい)の寄進により制作された。「氣比神宮」の文字は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の筆によるものである。
拝殿左側には、伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)など「九社之宮」と「神明両宮」がありました。
門を出た右側には三社ありましたが、一番右に祭神が都怒我阿羅斯等命である角鹿神社がありました。
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東門口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であった。
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