明日17日の午後、香川に行く用事があって、朝一の高速バスで行く予定にしていました。しかし、台風がやばそうなので、昨日に、今日午後の高速バスに変更し、ホテルも予約した途端、電話が掛かってきて18日の午後に延期するとのこと。再度高速バスを月曜日の朝一に変更してホテルをキャンセルしました。
結局、今日は何もなかったので、3週間前の東京の続き、4日前のの品川神社の日記の続きです。
品川神社の由来を見ると、「三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮座と定められ、徳川将軍家の庇護を受けた」とあったので、東海寺に行くことにしました。品川神社から歩いて10分弱のところにありました。
しかし、さほど大きくない寺で、観光客が来るような寺では無さそうな感じでした。寺の外に出ると塀に、「東海寺 大山墓地案内」という地図がありました。この場所から山手通りを歩いて京浜東北線のガードをくぐったところにあるようなので行ってみました。
目的地の入り口には「官営品川硝子製作所跡」というのがありました。
横に「近代硝子工場発祥の地」というのがあって、
此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条実美ノ家令丹羽正庸等ノ発起ニヨリ我国ニ始メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ已ムナキニ至ッタ
其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開発ニ貢献シ本邦硝子興業今日ノ基礎原動力トナリ我国産業ノ興隆ニ寄与スル所頗ル大ナルモノガアッタ
吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ図ッタガ會々此ノ挙ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル発祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ伝フルヲ得タノデアル
何かよくわからないので、品川区教育委員会の説明板を見ると
日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。
興業社は、明治9年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治25年(1892)に解散した。
昭和36年(1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
細い通路から中に入ると「史跡 澤庵墓」という石柱があり、少し行くと沢庵墓がありました。
一般的に沢庵漬けの考案者と言われています。
沢庵(1573〜1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は道号。但馬国出石(いずいし:現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長14年(1609)大徳寺の153世住持となった。
寛永6年(1629)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永16年(1639)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保2年(1645)12月没、73歳。
沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。
見回すと墓地の中に石鳥居があったので、その場所に向かってみると「賀茂真淵墓」でした。
賀茂真淵は国学者で万葉集を研究した「万葉解」が出しています。弟子の中で有名なのは「古事記伝」の本居宣長です。
賀茂真淵は今の浜松市で生まれましたが、生家跡には賀茂真淵が祀られている「縣居神社」や「賀茂真淵記念館」があって、昨年行ったことがありました。
http://fine.ap.teacup.com/takezumi/4431.html
賀茂真淵記念館に行った時に墓は東京にあると聞いた記憶があるのですが、この場所だったのですね。
賀茂真淵墓を出ると「井上勝の墓」を示す矢印があったので、行ってみました。
井上勝は井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文と並んで長州五傑(長州ファイブ)の1人ですが、「日本の鉄道の父」や「日本の鉄道王」で知られています。
、”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。
死後も鉄道を見守っていたいとのことでしたが、すぐ近くを新幹線、横須賀線、山手線、京浜東北線の電車が1分間に3回ぐらいは通り過ぎていき、これほどうるさい墓地は今まで見たことがありませんでした(笑)。
井上勝の墓の辺りが突き当りで、引き返すと「西村勝三之墓」がありました。
西村勝三は日本では初めて西洋靴を作った人として知られていて、明治3年(1870)西村が設立した「伊勢勝造靴場」は現在の「リーガルコーポレーション」の前身です。
先ほどの「官営品川硝子製作所跡」に戻りますが、政府が民間に払い下げた相手が西村勝三でした。しかし、経営不振により解散となり、敷地は三共(今の第一三共)に売却されました。敷地は最近まで第一三共の発送センターがあったのですが閉鎖され、JR東海の変電所を新設する工事が行われていました。
東海寺大山墓地は多くの偉人、有名人の墓があり見逃したものもあって、他には江戸時代の歴学者や囲碁棋士として知られている渋川春海の墓があったようです。それから、井上勝の墓の近くに新しいモニュメント風のものがあって、写真も撮らずにスルーしたのですが、ここが島倉千代子の墓だったようです。島倉千代子は品川区の出身で、3泊したホテルの最寄り駅の「青物横丁駅」の電車接近メロディは「人生いろいろ」をアレンジしたものでした。
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