昨日の日記の続きです。
15日の土曜日、午前中の業務を終えて善通寺から高知へ移動となりました。善通寺駅までの途中、四国学院大学の前を通りました。この大学は、特別推薦枠として、キリスト教信者や身体障碍者の他に被差別部落出身者や被差別少数者(アイヌ、在日韓国朝鮮人、沖縄県及び奄美諸島出身者の枠があることで知られています。しかし、こういった措置は被差別部落出身者における京都市役所の職員の例でもありましたが、特権意識を持ってしまって不祥事が起こることが多いのと、差別の固定につながってしまうような気がします。
http://www.sg-u.ac.jp/applicant/enter_exam/tokusui/
善通寺駅に着いて、もしバスで高知に行くのであれば、高速バスの停留所まで重い荷物を持って30分ほど歩かなければなりません。まあタクシーを使うでしょうが、空席があるという保証もありません。ですから、金はかかるのですが土讃線の特急で高知に行くことにしました。ところが、次の高知行の指定席は満席ということで自由席になってしまいました。高知行の列車が到着したのですが自由席も埋まっていました。通路に立たざるを得なかったのですが、幸い次の琴平駅ですぐそばの座席の人が降りたので着席することが出来ました。
高知駅に到着しました。高知市内は初めてでした。少し南へ行ったホテルに荷物を置いてぶらつくことにしました。ホテルの近くに神社があって、「高知八幡宮」でした。御祭神は応神天皇、神功皇后、多紀理比売神(たぎりひめのかみ)、市杵島比売神(いちきしまひめのかみ)、多岐都比売神(たぎつひめのかみ)です。
由来ですが
南北朝の頃、高知市周辺の領主で南朝の忠臣であった大高坂松王丸が大高坂城(高知城)の守護神として京都石清水八幡宮から城内に勧請したと伝えられています。慶長年間(400年前)山内一豊公が土佐に入国、高知城築城に際し、西ノ口御門内杉に社殿を建立し、本丸から遷座(この際、江州長浜の宇佐八幡宮を合祀)、以降、270年間この地に鎮座し、 城内城下鎮守の神 として崇敬されてきました。明治維新後、「氏子の中心地へ氏神様を迎えたい」との城下庶民の強い懇望により、明治3年尾土の遥拝殿を、同4年、城内鎮座の本宮を氏子の中心地である現在地に奉遷しました。
ここから南へ歩くと「はりまや橋」があって、高知一の繁華街です。
藩政時代、堀で隔てられていた豪商播磨屋と富商柩屋(ひつや)がお互いの往来の為に架けた私橋が後に「はりまや橋」と呼ばれるようになりました。
高知で有名な民謡として「よさこい節」がありますが、その起こりは安政2年(1855)の春、五台山竹林寺南坊の住職純信が、山の麓のいかけ屋の娘お馬に愛のしるしとして、かんざしを与えたことが評判になりました。当時僧侶の妻帯はご法度のため純信は伊予国川之江に流され、お馬は現在の須崎市の大工と結婚、その後東京に定住したそうです。
昭和34年(1959)にペギー葉山の「南国土佐を後にして」がヒットし、現在は歌碑が設置されています。1時間に1回ペギー葉山の歌声が流されて、鯨の親子の像から潮が吹きだす仕掛けになっています。
本来、高知城は午後5時までなのですが、14日から17日まで「高知城・夏の夜のお城まつり」が開催されていて午後9時まで入ることが出来ました。
高知城は、日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。
もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。しかし、治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した。その後、関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、慶長6年(1601)秋から築城をはじめた。
一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣所村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが、難工事の末城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年(1727)のことであった。享保12年には、一部の建物を残して焼失。直ちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を要している。その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となって今に至っている。別名を鷹城。
天守閣から高知の夜景を望みました。また、板垣退助や山内一豊の像がありました。
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