昨日、吹田に行ったのですが、帰りどこか行くところがないかぶらついていたら「垂水神社(たるみじんじゃ)」というのがありました。
阪急千里線の豊津駅から府道145号線を西へ歩き2つ目の信号を右に曲がり、セブンイレブンのある角を左に曲がって少し行くと一の鳥居があります。ここから参道ですが、参道脇は一般の家が建っています。
由緒には
當社は延喜式内大社にして第十代祟神天皇の第一皇子にあたらせられる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神として仰ぎ奉り、相殿に大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の神々を奉齋する社である。
新撰姓氏録右京皇別によれば「孝徳天皇の御宇 天下旱魃し河井涸絶せるに際し 豊城入彦命の數世の御孫阿利眞公 高樋をつくりて垂水基岡の水を長柄豊碕宮に通し御膳に供すれば 天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」とある。
これより この地方を垂水とよぶようになる。
山頂には彌生式住居跡が數基埋蔵されていることからしても、垂水氏はそれ以前よりこの地に祖神を祀り、御神徳を輝かしめ、一大勢力を保っていたと考えられる。
二の鳥居から中に入ると正面に石段があり、登っていくと拝殿でした。
拝殿の右側に伊勢神宮と同じ神さまをお祀りしている「皇太社」、祓戸大神である四神をお祀りしている「祓戸社」、鉱山の神である金山両神と食物の神である豊宇気比売命、五穀豊穣と商売繁盛の神である事代主神が祀られている「戎(稲生)社」があります。右奥は小高い丘陵になっていますが、「垂水弥生遺跡」の説明板がありました。垂水遺跡は、弥生時代中期後半からムラとしての規模が大きくなり、後期以後、古墳時代に至ると衰退していたそうです。
さらに右側には「垂水の子孫たちへ」という石碑がありました。
垂水神社の森は飛鳥時代から今日に受け継がれてきましたが、この場所にマンション建設の話が持ち上がり、3年に及ぶ反対運動の結果、反対者署名13,528人、活動資金431万円余り、さらに目標額の四倍に近い3,807万円余りの奉賛を得て、建設計画の中止と業者の完全撤退を実現し、当該地を600万円で買い取って境内地に加え、杜を整備できたことは「垂水神社の奇跡」と世に言わしめたそうです。
最後に「私達は、この経験を後世に伝え、祭祀の途切れさせることなく、神々の森を遠い将来の氏子・崇敬者に伝えていくことこそ御神慮にかなうものと考え、その思いを永遠ならしむるため、ここに碑文を刻み、未来への伝言とする。」とありました。ともすれば戦後、伝統をぶち壊そうとする勢力が台頭していますが、永い期間受け継がれてきた伝統を我々が子孫へ引き継ぎ、ぶち壊してはいけませんし、我々の子孫も引き継いでもらいたいものです。
拝殿の左に下りる階段がありますが、「垂水の瀧」というのがありました。小滝と本滝があるのですが、本殿背後の湧水がこちらに落ちてくるそうです。
孝徳天皇の御代(645年〜654年)干ばつにより水不足となった難波の宮まで懸け樋を通してこの水を献上しました。 その功績により垂水という名前を戴きました。以来、神聖な水として大切にされています。 万葉集の志貴皇子の歌はこの水を詠んだものといわれます。水をいただく方は、靴を履き替え、拝礼してからお受けください。
横にスリッパがあったので履き替えて滝に行きました、ただし、自然水であり飲料水の検査は受けていないので軽く口に含む程度にしておきました。
滝から流れてきた水をたどるとフェンスで囲まれた池があったのですが、「津くよみの池」といい、鯉が泳いでいました。
その横に石碑があって「いははしる たるみのおかの さわらひの もえいつるはるに なりにけるかも(石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも)」とありますが、万葉集巻第八春の雑歌にある志貴皇子(しきのみこ)懽御歌(よろこびのみうた)の一首です。
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