今日は何とかやるべきことを終えたので、夜は中之島の大阪市中央公会堂での大阪れきべんに飛び入りで行ってきました。3か月ぶりの参加になります。
今大阪れきべんでは3月から「近代日本を作った男たちと女たち」のシリーズになっていて、第1回が薩摩、第2回が長州で、今回は肥前(佐賀県)です。
薩摩、長州、土佐に比べると肥前は地味な存在ですが、幕末から明治にかけて佐賀藩出身の偉人7人を「佐賀の七賢人」というそうです。鍋島直正、佐野常民、島美勇、副島種臣、大木喬任、そして大隈重信です。さらに副島種臣の兄である枝吉神陽を加えて「佐賀の八賢人」ということもあるそうです、
歴史を勉強していなかった私としては大隈重信と江藤新平は知っていましたが、後は四条堺町の日興証券のところに「佐賀鍋島藩屋敷跡」の石碑があって佐賀は鍋島氏というのを知っている程度で何も知りませんでした。
今回は鍋島直正に多くの時間が割かれました。天保元年(1830)、直正は17歳で佐賀藩10代藩主になるのですが、当時の佐賀藩は借金まみれでした。そこで直正は役人を5分の1に、借金の8割を放棄させ残りの2割を50年割賦という思い切った政策をすると共に、磁気、茶、石炭など産業や交易の振興に努めました。
また、藩校である弘道館を拡充して教育を充実させたり、日本三大反射炉の1つと言われている「築地反射炉」でカノン砲を作って東京のお台場に配置したりしています。三大反射炉のあと2つは萩と韮山で韮山反射炉は以前行ったことがあって、ここで作った大砲を列強の防衛のためにお台場に配置したことを記憶していたのですが、佐賀でもそのようなことが行われていました。
http://fine.ap.teacup.com/takezumi/3728.html
また、ペリー来航以後、「三重津海軍所」という造船所を設置して、凌風丸という蒸気船を作っています。それから天然痘の撲滅にも努め、牛痘ワクチンを自分の子の直大に接種して効果を確認したりしていました。
それ以外の人は佐野常民は、日本赤十字社の前身である博愛社の創設に関わりました。先日のさざれいしジャパンの「久野潤の歴史とらの巻」の本居宣長の話の時に、僧侶が祀られている「契沖社」があって、契沖社のある「櫻井神社」に行った時に「日本赤十字社発祥の地」の石碑があったのですが、櫻井神社と創設者の1人である櫻井忠興も少し触れられました。
http://fine.ap.teacup.com/takezumi/4754.html
島義勇は、北海道開拓使主席判官に就任しました。明治はロシアが虎視眈々と北海道を狙っていたために、我が国による北海道開拓は必要でした。
副島種臣は、外務卿、内務大臣に就任しました。地元紙の佐賀新聞の創設者です。
大木喬任は、初代文部卿で義務教育をの創設に携わりました。
江藤新平は、二代司法卿ですが、不平等条約の改正に努めました。井上毅をフランスに派遣してフランスの法律を参考にし、裁判所の設置や指名手配制度の創設を行いますが、皮肉なことに明治7年(1874)の佐賀の乱では指名手配制度により捕らえられ処刑されます。
大隈重信は、議会開設を巡って伊藤博文らと対立し下野しますが、その後2度内閣総理大臣になります。第二次大隈内閣の時は、第一次世界大戦がありましたが、日英同盟のため枢軸国に宣戦布告し、地中海のマルタ島に特務艦隊を派遣します。そこでは駆逐艦「榊」がオーストリア海軍に撃沈され戦死者を出すことになってしまいました。今だとオーストリアに海軍というのは考えられないですが、当時は地中海まで領土がありました。そしてドイツの権益のあった中国の山東半島を攻撃しますが、対華21ヶ条要求では袁世凱の罠に嵌ることになります。
8人目の枝吉神陽は楠木正成を祀る団体である「楠公義祭同盟」を結成し、王政復古に向かう役割を果たしています。
ここまで男ばかりでしたが、女性としては「愛国婦人會」を創設した奥村百合子、日本初の女性科学者の黒田チカなどがいます。
昭和10年(1935)の大楠公600年祭に尽力した1人である村岡クニが創業した村岡総本舗の小城羊羹を久野先生が持って来られて、懇親会でいただきました(笑)。
次回は「土佐編」で6月28日に同じく大阪市中央公会堂です。
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