先日、目黒不動尊に行った時の続きです。
青木昆陽の墓を通って山手通りに出たのですが、すぐ南に銅像がありました。「松雲羅漢」とありました。
天恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、5代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに536体の羅漢像を彫刻し、本所五ッ目に五百羅漢寺を築いた傑僧である。
明治42年、下目黒に移転してきたのち寺は荒廃の一途を辿っていたが、多くのかたがたのご協力により、昭和56年、由緒もある五百羅漢寺を再建することができた。
この再興を記念し、彫刻家佐山道知氏に制作依頼して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名づけて禅師の徳を讃えるものである。
西に五百羅漢寺があるようなので歩いて行ったのですが、途中に海福寺という寺がありました。
明から来朝した隠元隆埼が万冶元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例です。
山門に赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。
また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。
説明にもある「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」ですが、
文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政3年(1856)の50回忌には石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。
この事件はのちに、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や、京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、滝沢馬琴の『兎園小説余録』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えたかを明らかにする重要な資料である。
富岡八幡宮は、今も東西線門前仲町駅の近くにあり、永代通りを西に行けば隅田川に架かっている永代橋がありますが、昔こんな大惨事があったのですね。
さらに西へ行くと五百羅漢寺がありました。
天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。
当時、境内には「さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝見できると人気を博しました。
明治41年(1908)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土宗系単立の寺です。
本堂および回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。
木造釈迦三尊及び五百羅漢像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。
書院屋上にある梵鐘は安永3年(1774)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。
拝観料は300円ですが、時間が無かったので中には入りませんでした。入口の右側には「らかん茶屋」というのがあって、和風のランチやあんみつやアイスクリームなどのメニューがありました。
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